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出雲への旅 2019

2019年8月13日 (火)

天空の城「竹田城」訪問記

日本のマチュピチュ但馬のラピュタ

天空の城ブーム」 の先駆けとなった

  ご存知「竹田城

 国史跡「竹田城跡」公式ホームページ
 

Ruins of Takeda Castle on the sea of clouds
  
立雲峡から望む雲海上の竹田城址
季節はずれの夏に、
初めて訪れて、これが撮れれば
ビギナーズラックと言って良いのではなかろうか。
 
   

雲海に浮かぶ城址の写真はもはや定番の映像となりました。

 ウェブサイト
  和田山町観光協会 「天空の城 竹田城跡と周辺観光ガイド」

急にブレイクしたきっかけを調べてみると、

① 2006年に「日本100名城」に選定されたこと。
② 2012年に高倉健さん最後の主演映画『あなたへ』のロケ地となって、最後に「天空の城」の情景が映し出さされたこと

などが、あげられていました。

しかし実際にはそれ以前にも、1989年の角川映画『天と地と』のロケで、「春日山城」として、城跡に天守閣、大手門、塀等のセットが建設されたり、2003年の「魔界転生」では「原城」として、やはりセットが組まれて「島原の乱」のシーンが撮られるなど、この城址の存在は有名だったようです。
 

YouTubeに「天と地と」のオープンセットのスナップ写真集がありましたので、貼り付けておきます。今ならCGなのでしょうが、当時はすごいことやっちまったものです。今じゃぁ許されないでしょうね。

 

私が初めてその存在を知ったのは、2009年でした。まず雑誌でその存在を知り、さらに、まだ東京ミッドタウンの2階にあった頃の富士フイルムフォトサロンで開催されたいかるが幹さんの写真展「雲上夢舞台」 を観て、いつか行きたいと強く思ったのです。

当時のことがブログに・・・

しかし、あまりにも遠い・・・・(^^;;

それに行ったとしても、そもそもあの雲海の上に浮かぶ姿が、いつも見えるってわけじゃない。だからなかなか訪れる機会を作れずにいたのです。

出雲からの帰りに寄れないだろうか・・・いや、寄らねば今後、行く機会がないかもしれない。

雲海シーズンは秋、しかし夏だって見られる可能性は0ではない。ただしチャンスは朝だけだから宿泊は必須・・・これまではカミさんの要求に応え、温泉宿を選択していましたが、ここではそれを無視して、城址に近いルートイン和田山を予約しました。

夕食は面倒なのでホテル最上階にあるレストランで済ませることにしました。この手のホテルのレストランなので期待はしていませんでしたが、案の定、我々が行くと客は一人もおらず、おばちゃん達が、椅子に座って足を組み、腕組みしながら阪神戦をTV観戦中でした。

我々に気がつくと、「あっ、油断してたわ」と慌ててお仕事体制に・・・。

 BGMが流れているのに・・・
    TVではそのまま阪神戦。

  普通どっちかっしょ。

こりゃぁ面倒でも外に出て食べたほうがよかったかなぁ、とその時は思ったのですが、料理は美味しく、予想が外れました
 

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幸いホテルの近くに日帰り温泉施設があり、フロントで割引券がもらえるので、お風呂はそちらで。ここでまた衝撃の光景を目にします。

なんと露天風呂にTVが設置されているのです。男湯の方ではバラエティーが流れていましたが、女湯では阪神戦だったそうです。しかもそれとは別にBGMが流れているんです。ホテルのレストランと同じなのです。お湯が温いこともあって、皆さんずっとTVをご覧になっています。

これはもはや文化

関西の文化か、兵庫の文化か、但馬の文化かはわかりませんが。

そんでもって、おばちゃんが野球好き

あっ、単なる阪神好き?
 

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早朝・・・ホテルの外に出てみると街中に薄い霧が漂ってます・・・この時点で今朝の雲海発生率100%だと確信しました。

お馴染みのあの光景を見られるビューポイント立雲峡」へと車を走らせます。

駐車場は車がいっぱいでとめられないとか書いてあったwebサイトもあったので、どうなんだろうと不安でしたが、霧の立ち込めた広い駐車場には先着の車が一台だけでした。ブーム最盛期ならいざ知らず、秋でもない平日だとそんなもんなんですね。

立雲峡は標高756メートルの朝来山の中腹にあり、奇岩、巨石が点在する桜の名所としても有名な公園です。公園の中に3箇所の展望台があって、駐車場からの所要時間第一展望台:徒歩40分第二展望台:徒歩15分第三展望台:徒歩5分となっています。ちなみに、よく紹介されている写真や映像は第一展望台からのものなので、少し歩かなければいけません
 


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まだ暗い遊歩道入り口

 

遊歩道入口で200円を支払い、暗がりの中、第一展望台を目指します。

第一展望台と第二展望台にはひな壇が設けられており(2016年に設置されたとのこと)、キャパシティーはかなりあり、これを見ても、かなりの大軍がここに押し寄せて収拾がつかなくなっていたことが想像されます。今も雲海シーズンの朝などはすごいのかも。
 

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第一展望台のひな壇
 

ですが、今日の第一展望台は無人

   
 

Ruins of Takeda Castle on the sea of clouds

 

 困った時のモノクロ作戦
 

結局5時から6時過ぎまでいて、第一展望台に来たのは2組だけでした。

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第一展望台はこんな感じ。
 
 
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立雲峡そのものもなかなかですよ。
  
 

竹田城は但馬(兵庫県の日本海側)を治めた山名氏によって、播磨(兵庫県の太平洋側)との国境を守る拠点として15世紀の中頃に築城されました。城の南方にある生野銀山を管轄する城でもあったようです。100年以上山名氏の支配下にありましたが、1577年、羽柴秀吉の但馬攻めによって山名氏は敗北し、竹田城は織田方の拠点となります。最初の城代は秀吉の弟、羽柴秀長。その後城主は桑山重晴、赤松広秀と代わり、1600年、関ヶ原の役を迎えます。

赤松広秀は西軍につき丹後田辺城を攻めます。ところが関ヶ原ではあっという間に西軍は敗北。これはやばいと思った広秀は東軍の亀井茲矩の誘いに乗って東軍に寝返り鳥取城攻めに参加。家康の一番嫌いな立ち回りをやっちまった彼は、城下に火を放った責任を取らされる形で、竹田城に戻ることなく切腹 。程なく竹田城は廃城となります。

廃城とされた城は、建物はもちろん石垣も壊されるのが普通のようで、石垣がそのまま残されたというのは奇跡に近いのだそうです。城の最期は少々情けなかったですが、それはそれでヨシとしましょう。

 

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趣のある佇まいのJR竹田駅
背後の山が竹田城で石垣も見えます。
 
 
朝食の後に城址を目指すことにしました。城址直下まで車道が通じており、昔は普通に行けたのだそうですが、ブーム以来、一般車通行止となっています。どこからでも、ある程度歩かなければ、城址にはたどりつきません
 

城に登る前、竹田の町を少し歩くのですが、ここがまた味わい深くてシビれます。

城は江戸時代に入る前に廃城になってしまったものの、この地はその後も姫路・生野と和田山から京都を結ぶ街道沿いの宿場町
として賑わい、発展しました。その面影が随所に残っています。

 

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旧街道の典型的町並み
 
 

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寺町の水路
 
 

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なんと、一般のお宅にシャチホコ
マジすか・・・
うだつの上がる町並みは聞いたことがあるけれど
シャチホコの町並みは初めてかも
 

風情に圧倒されました。城址ばかりが宣伝されますが、この美しい城下町ももっと宣伝されていいかなと思います。

竹田城ブームの後、古民家を改造した宿がいくつか誕生しています。
 

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駅裏を上り口とする「駅裏登山道」がおそらく昔の大手道だったと思われるルートです。其処此処に石垣が残り、石の階段も往時を彷彿とさせる造りです。なので、このルートが城址訪問にはもっともお勧めと言えると思います。
 


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駅裏登山道の石の階段
往時を偲ぶことができる良い道です。

 

登り着いたところに料金所があり、入場料500円を支払います。
 

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料金所
 

北千畳→三の丸→二の丸→本丸と歩き、反対側の南二の丸におり、南千畳を通って出るというのが標準ルートとなっています。

 

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400年の歴史を感じる石垣


一方通行で通路はきっちりとロープで仕切られ、寄り道は許されません。もちろんこれは人気が出てからの処置で、「昔は石垣に登って遊んでいたよ。」とは、本丸近くにいらっしゃったガイドの方の談。観光客が少なく、暇だったようで、色々話を伺うことができました。「まさか年取ってからこんな仕事ができるとはね。びっくりした。」と仰ってました。

 

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石の声を聴いて積み上げられた
穴太積みの石垣
 
 

どうやら、ブームも落ち着いたようですので、そろそろ一方通行は解除しても良いのではないでしょうか

 

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天守から南二の丸と南千畳を望む
 

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南二の丸から本丸を望む
  

登ったのとは違う道、表米神社登山道で降るのがお勧めです。

 

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表米神社境内にある相撲桟敷
 

降りてきたら面白いものが目に入りました。
六段の石積みがある相撲桟敷です。
江戸時代からのもののようです。

 

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夏の登城は汗びっしょり。
たけだ城下町交流館で「雲海ゆずサイダー」.
これにて、竹田城訪問完了!!
午後は富士宮までひたすら 「ドライブ」でした。
 
 

2019年8月12日 (月)

出雲神社巡り④ 玉造温泉と玉作湯神社

松江では玉造温泉の「長生閣」さんに2泊しました。
  

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夏のシーズン中、こんなイベントが行われています。
もちろん安来節どじょうすくい踊りも・・・
    

  

安来節 どじょうすくい踊り @長生閣

  
玉造温泉は松江の市街地からおよそ15分。

開湯は奈良時代といわれ、「出雲国風土記」にも登場する有名な温泉で、私も名前だけは知っていました。

一度湯に入ると容姿が端正になり、再び入れば万病が治る」とされています。

玉造の名前の由来は、近くでメノウが採掘でき、ここで勾玉が造られていたことによるそうで、三種の神器の一つ、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)も櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)によってこの地で造られたとのこと。

 

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玉湯川沿いに、温泉旅館と土産店・飲食店が集まり温泉街が形成されています。古い旅館の中には閉めてしまったところもあるようですが、「廃墟」が目立つというほどではなく、温泉街は健全に保たれているように感じました。「星野リゾート 界 出雲」もこの温泉街にあります。出雲観光の拠点として地の利はとても良いです。日帰り温浴複合施設「玉造温泉ゆ〜ゆ」もありました。

朝、食事の前に少し散歩してみました。大きな温泉街ではないので、さほど時間はかかりません。

あちこちに籔内佐斗司さん制作による神話のモニュメントが置かれており、それらを探しながら歩くのが楽しいです。

  
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ヤマタノオロチ vs スサノオノミコト
 
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大国主神 with 因幡の素兎
 
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謎の芸術作品も・・・何?
 
 

温泉街の外れには櫛明玉命を祀る玉作湯神社があります。
  

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ここは島根の三大縁結び神社の一つとされ。境内にある願い石を叶い石で撫でると、願いが叶うと言われています。どこにでもありがちな話だと思うのですが、結構な人気のようで、訪れた皆さん「叶い石」をお買い求めになるのでつられて買っちゃいました。
 
 
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人気の玉作湯神社
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これが「願い石」です。
 

2019年8月11日 (日)

出雲神社巡り③ 冥界への入り口「黄泉比良坂」と揖夜神社

さらに昔に遡ります。

イザナギイザナミ
 
ご存知、日本列島・・・大地そのものを創った神様です。

二人は夫婦であり、イザナミが日本列島を形作る大小の島を生んだとされています。生んだと書きましたが、男女の交わりをして生まれたという話なので、産んだ・・・出産したってことらしいです。てことは、めっちゃデカ女だったってことですよね。

イザナミは、大地を生み終えた後、山、石、木、海、水、風、野など、森羅万象の神々を30以上を生んで、最後に火の神「カグツチ」を出産し、大やけどを負って亡くなります。本当にもう無茶苦茶な話ですが・・・。
 

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イザナミをお祀りする揖夜神社
  

そしてあの有名なエピソードに続きます。
 

そもそも神様が亡くなるってのはどういうこと?とは思いますが、それはそれとして、悲しんだイザナギはイザナミに地上に戻って欲しいと告げるために、黄泉の国に向かいます。そこで色々とやり取りがあり(省略ね)、結局イザナギは、腐敗してウジ虫だらけになったイザナミの体を見てしまいますきったねぇ、気持ち悪いぞこれ!!」と、100年の恋も冷めたのでしょうね。辱められ怒ったイザナミは「イザナギを殺れ!!」と命令。これもまた神様にあるまじき行動ですけど、とにかくそういうことで、黄泉醜女という悪霊たちとともにイザナギに襲い掛かります。このときイザナギが必死に駆け上った地上へ続く坂が黄泉平坂(よもつひらさか) 。地上にたどり着いたイザナギは、千人がかりでないと動かせないような大岩を引っ張ってきて、黄泉の国と地上の世界の間をふさいでしまいました。追いかけてきたイザナミは、岩の向こうから「これからは、テメェの国の人間を、一日に千人ずつぶっ殺す」と言い、イザナギは「やるならやってみろ、こっちは一日に千五百人ずつ子供が生まれるようにしてやるぜ」と言い返したとのこと・・子供の喧嘩かよ。千人で動かせる程度の岩を、本州を出産したほどのデカ女が動かせないのも不思議な話ですが、とにかくそういうことだそうです。これ以降、イザナミは黄泉の主宰神となりました。そういうことにしておきましょう。
 

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黄泉比良坂
イザナギを追いかけた黄泉醜女の軍団を
黄泉比良坂46と言うとか言わないとか
    

で、黄泉比良坂(よもつひらさか)にも行ってまいりました。大地を創られた神様が通った道にしては、いささかスケールが小さいのが気になります。岩もありましたが、動かすには千人もかからないと思われたので多分「岩」違いでしょう。
  

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ライオンズクラブの仕業です(^^;;

   

黄泉比良坂の近くに黄泉の主宰神 伊弉冉命(イザナミ)をお祀りする 揖夜神社があります。 

 

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黄泉比良坂は伊賦夜坂(いふやさか)とも呼ばれ、そこから採られた「揖夜」だと思われます。
  

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正面に置かれたはなんでしょう。
流石にそこに自分を映したまま撮ると
どこかに逝っちゃいそうなので、
わずかに外して撮りました。

 

揖夜神社の本殿は大社造ですが、内部の造りは出雲大社とは逆の向きになっているそうです。黄泉の国は、地上の国と表裏一体という意味なのでしょうか。もしかすると鏡もそれに関連するのでしょうか。
 



荒神社
渋っ
 

 本殿と真正面に向き合う位置に、スサノオノミコトを祀る荒神社がありました。スサノオノミコトはイザナギが黄泉の国から帰還し、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊を行った際、天照大御神、月読命に次いで鼻を濯(すす)いだときに産まれたとされています。スサノオノミコトは夜の食国または海原を治めよと言われましたが、それを断り、母神イザナミのいる根の国に行きたいと願い、イザナギの怒りを買って追放されてしまったと古事記にあります。そのようなエピソードもあるので、向かい合わせに祀られているのでしょうね。

 

出雲神社巡り② 須佐之男命ゆかりの「日本初之宮」

さて、国造りのお話の前のお話。


粗暴で、色々問題を起こすとして高天原を追放された地上に降りた神がいます。後に大国主の舅となるその神は天照大御神の弟スサノオノミコト(建速須佐之男命、須佐之男命、素戔男尊など)。


力が強く粗暴なため、高天原では厄介者だった彼ですが、地上ではヤマタノオロチを退治して一躍ヒーロになります。生贄にされそうになっていたところを助けられた櫛名田比売はスサノオの妻に、ヤマタノオロチの尾から出てきた草那藝之大刀は天照御大神に献上され、今も天皇家に伝わる三種の神器の一つになります。

ヤマタノオロチを退治した後、スサノオが宮殿を建てたのが、今須我神社(島根県雲南市大東町)がある場所だということです。
 

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これが日本初の宮殿ということで「日本初之宮」と呼ばれ、この時に須佐之男命が詠んだ歌が日本初の和歌ということで、「和歌発祥の地」ともされています。

八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 

  八重垣つくる その八重垣を

これがそのときの和歌。

この歌の中の「出雲」が出雲の国名の起元であり、「八雲立つ」は「出雲」の枕詞だそうです。もちろん小泉八雲の「八雲」はここから採られたものです。小泉出雲では「イズイズ」になって語呂が悪かったのでしょうね。
 

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須我神社の主祭神は、もちろん須佐之男命(スサノオノミコト)、そして妻の櫛名田比売(くしなだひめ)、そしてその子の清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと。八島士奴美神)。
 

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上に貼ってあるポスターで、
ねずみ男が触っているのが須我神社奥宮の磐座です。

 

この神社には奥宮があって、須佐之男命と櫛稲田比売命、その御子神である八島野命の神霊が鎮まる大小大小三つの巨岩の磐座があります。時間が微妙で今回は立ち寄れませんでしたが機会があればゆっくりお参りしたいと思っております。

 

出雲神社巡り① 出雲大社へ

神社だらけの出雲。その中で今回は出雲大社玉造神社須我神社熊野大社揖屋神社を訪れました。そんなことで、アタクシなりの理解でそのいくつかをご紹介したいと思います。

 

まずは外せない出雲大社から
 

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よく話題になる神楽殿の「大しめ縄
全長13.5メートル、重量4.5トン


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出雲大社神楽殿の御朱印
神楽殿として大社本殿とは別に御朱印があるんです。
 

 出雲大社は改めてアタシのブログで紹介するようなところじゃないんですけど、書かないわけにもいかないので、それなりに書いてみます。専門家ではないので、間違いも多々あるかもしれません。その辺はご容赦を。諸説ありますということで。
 

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銅鳥居と拝殿
 

 出雲大社の主祭神は大国主大神(おおくにぬしのかみ)。天孫降臨以前からこの国土を治めていたとされる土着の神(地神)「国津神」の一人とされています。あれ?、神様って「人」で数えていいんでしたっけ。
  

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 ご存知の通り、大国主大神は国造りの神として知られており、「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」という別名を持っています。
 

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 シンプルすぎる御朱印

 
 大国主大神によって築かれた国は「豊葦原の瑞穂国」と呼ばれ、彼がその国のいわゆる王でした。それを天照大御神に譲り、それが日本国の始まりとなったとなったとされています。出雲大社のサイトを見ると「国譲り=国土奉還」とあり、譲ったというより、国を創造した天津神(高天原にいる神々)に還したという表現の方が正解みたいです。
 

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本殿の裏手には大国主大神 の舅、スサノオノミコトもお祀りされています。
鎌倉時代から江戸時代初期までの一時期、出雲大社の祭神はスサノオノミコだったことがあるそうです。色々事情があったのでしょう。
   
 

 史実としては、大国主大神とされているのは出雲の王で、天照大御神を王とする大和軍と戦い敗北して降伏したということがあったのではないかと想像されています。

 敗北した大国主大神を祀ったのが今の出雲大社。負けたり、権力を剥奪されて追放、殺害された人を祀った神社は数多くあるわけですが、出雲大社ってのはその最古で最大のものなのかもしれません。それだけ大国主大神というのは大きな力を持っていたのでしょう。


 

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天照大御神の第二子
アメノホヒ(天穂日命)を祀った末社。
 『古事記』 や『日本書記』 によれば、アメノホヒは葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたものの、大国主神を説得するうちに心服して地上に住み着き、3年間高天原に戻らなかったとされています。一方、アメノホヒの子孫、出雲国造(いずもこくそう= 千家家 )による『出雲国造神賀詞』によれば、しっかり仕事をして地上を平定した偉大な神とされています。もちろん出雲大社では後者として祀られています。先ごろ、皇族だった高円宮典子さまが、 2014年に千家家に嫁がれました。「出雲のことは任せてあるけど、勝手なことをするでないぞ」というお目付役として嫁がれたのかも(笑)。 不仲説や別居報道が絶えないのが気になります。もし出雲と天照の子孫である天皇家が決別したら、結界が解かれ、大国主命が再びこの世に蘇るという前提で、また新たな神話ができそうです。

  

 大社の神殿の中で、大国主大神は前ではなく横(西)を向いて祀られているそうです。国造りの神と煽てられて祀られても、まだ納得はしていないのかもしれませんね。ただ夕日を眺めてたそがれているだけかもしれませんけど。
 

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御神座の正面にあたる西側に

大国主大神をお参りできる場所があります。
 
 

 これとは別に、大国主大神を主人公とする因幡の白兎」という物語があります。ここでは大国主大神=大国主命=大国様→大黒様となっており、優しい神様として描かれていますが、神仏がぐちゃぐちゃになっており、国造りの大国主大神と同じ人物を表しているのかどうか、怪しいところです。
 

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 それはともかく出雲大社は兎の像だらけです。卯年の方にはとてもご利益がありそうな気がしますね。
  

2019年8月10日 (土)

松江城と小泉八雲

月山富田城の訪問記を書いたので、ちょっと飛ばして松江城の話。

訪れたのは富田城訪問の翌日でした。出雲大社にお参りした後、松江に戻って大手門前の駐車場に車を入れ、入城。
 

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松江城は関ヶ原の戦いで戦功のあった堀尾忠氏が、富田城に代わって松江藩の中心となる城として1611年に築いたものです。実際に今の姿に近い状態になったのは、1634年に堀尾氏に代わり京極氏が入った後のようです。
 

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山陰地方で唯一の現存天守国宝。ただし国宝となったのは2015年とごく最近。我々の時代は、国宝天守といえば、犬山、松本、彦根、姫路の4城でした。
  

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築城後の山陰地方はさしたる争いもなかったようで、戦火にまみえることはなかったようですね。なので物語的に特筆すべきものがなさそうです。
 

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だそうです。

 
松江城だけではなんなので、松江城天守閣小泉八雲記念館小泉八雲旧居の3館共通券というのを買いまして、少し歩きました。周辺には武家屋敷などの古い町内が残っています。塀と門だけってところも多いですが。
 

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城の周辺の武家屋敷
 

記念館は八雲の人生がよくまとまって紹介されており、オススメです。

すぐ横は、八雲が松江時代に暮らした元武家屋敷で、当時のままの庭も残されており、彼が過ごした時間の風を少し感じられるような気がしました。
 

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小泉八雲旧宅
 
堀の周辺をぐるっと歩いて、味わいのある別件をちょこちょこ撮りながら、大手門前の駐車場まで戻りました。
 
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難攻不落の山城「月山富田城」ってここか!!

地図で、足立美術館を調べていて、ふと目に留まったのが「月山富田城」の文字。

月山富田城!!!
(がっさんとだじょう)

富田城といえば、最盛期には山陰・山陽十一州を手中に収めた戦国大名尼子氏の本拠ではありませんか。

これは是非とも寄っておかねばなりませぬ。
 

足立美術館はめっちゃ有名ですが、なぜこんな近くに名城があることがほとんど紹介されていないのだろうと憤慨しながら、現地に向かいました。

実はかくいう私も、尼子氏の本城、難攻不落の山城だということ以外、富田城に関する知識はほとんどありません。まずはカシミール画像でチェックです。
  

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場所はこんなところです。
海沿い(といっても中海ですが)から、いくらか山の方に入ります。
 
 
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クローズアップするとこんな感じ。
城郭の起伏がよくわかります。
本丸と二の丸の間の堀切までわかります。

 
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富田城から日本海方面を望む

  

私が戦国大名尼子氏の名前を初めて耳にしたのは、おそらくは「八つ墓村」です。

横溝正史の金田一シリーズ。岡山県のとある寒村。報奨金に目の眩んだ村人たちによって殺された、尼子の落ち武者8名の祟りの物語。渥美清が金田一耕助を演じた映画では、田中邦衛や夏八木勲が落ち武者役で生首を晒されておりました。そんなこともあって、尼子というと、どうも陰気なイメージを持っちゃってるんですよね。
 

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山中御殿越しに三の丸、二の丸を望む。正面が七曲。
  

史実に戻りましょう(笑)
 

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このお城、難攻不落の山城として知られます。

その難攻不落ぶりを発揮した有名な戦いが二つ。
 

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  二の丸(左)、本末(右奥)
突然にわかに雨が・・・尼子の涙か・・・
 

一つ目は、毛利軍の攻撃で尼子氏が滅亡することになった、第二次月山富田城の戦い。結局尼子は毛利に敗れるのですが、1565年4月、毛利軍が富田城を包囲し補給線もほぼ断ち切った状態で最初の総攻撃を仕掛けてから、なんと約一年半の間持ち堪えたのです。兵糧が尽き尼子氏が降伏し開城した時の城兵はわずか300だったとも・・・凄くないですか?

 

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本丸から二の丸を望む
手前が本丸との境である堀切

 
 

もう一つが、1969年、今度は尼子再興軍が毛利方の天野隆重が守備する富田城を攻めた戦い。この時、毛利軍は九州出兵のため城は手薄で、城兵はわずか数百。隆重は降伏し開城したいとの書状を尼子側に送って、彼らを三の丸手前までおびき寄せ、そこで急襲し撃退。その後、尼子再興軍は富田城を包囲し続け、なんどか攻めたものの結局落とすことはできませんでした。1570年3月、九州から戻った毛利本隊が富田城を救援した時には兵糧は0、落城寸前だったそうです。でも落ちなかった!!
   

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本丸 奥に見えるのがは勝日高守神社。
なにせ落ちなかった城ですから、お受験などには御利益あるのかも

 

そんな富田城ですが、1611年松江城が築かれたことにより、山陰の首城の役割を終え廃城となります。
 

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今はハイキングコースが整備されており常時、登城可能です。スタートは麓の道の駅「広瀬富田城」か、中段の山中御殿跡下の駐車場から。我々は時間がなく寄りませんでしたが、道の駅にはパンフレットやガイドブックがあるようです。
 

2019年8月 8日 (木)

足立美術館

「ミシュラン」では「三つ星」、アメリカの日本庭園専門誌「The Journal of Japanese Gardening」では、「16年連続日本一」に認定された日本庭園で超有名な足立美術館

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最近はTVなどでもよく紹介されています。

カミさんはツアーで来たことがあるとのことでしたが、植田正治写真美術館と今日の宿泊地である松江の玉造温泉とのちょうど中間点にありますし、時間も十分あるので寄ってみました。
  

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カミさんが訪れた時よりも施設(建物)が増えているようでした。
いやはや、ミシュラン「三つ星」で、がっちりですな。
 

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1Fを歩きながら庭園を楽しみ、2Fで美術品、工芸品を鑑賞するというスタイル。

収蔵品は地元出身の実業家・足立全康が一代で収集したものが中心で、美術館は71歳のときに開館したのだそうです。

 

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中でも横山大観の作品は総数130点で日本一。大観作品専用の展示室「大観室」では、夏の横山大観コレクション選が開催中。ちょうどいいタイミングで、ギャラリートークがあったので聞いてきました。

大観芸術の集大成とされる『山海二十題(海・山十題)』のうち、全康氏が最も入手することに執着したことで知られる「雨霽る」(昭和15年)も展示されており堪能。彼が執着したのがわかる大観にしては珍しい?動感溢れる素晴らしい作品でした。

しかし、この『山海二十題(海・山十題)』は、販売で得た収益を「戦闘機の生産」のために寄付をすることを目的に描かれたもので、「山海二十題」全ての入り上げで、4機の戦闘機が寄付できたそうです。それを知るとまた違った感情が混ざります。絵、そのものには罪はないですけど。
 

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北大路魯山人の作品も多く、「魯山人館」が建設中でした。2020年4月に開館だそうです。

 

植田正治写真美術館

3日目、赤穂から北上、中国山地を超えて伯耆富士とも呼ばれる大山の麓へ。

ここに、ぜひ一度訪れたかった写真美術館があります。

鳥取県境港市を拠点に活動し、「植田調」と呼ばれる前衛的な演出写真でよく知られる植田正治さん (1913-2000)の写真美術館です。
 

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植田さんは福山雅治さんの写真の師匠としても知られていますよね。

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大山が最も美しく見える場所に建てられたというその建物がいいです。
 

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大山をバックに植田調の写真が撮れるこんなスペースが用意されており、皆さんひっきりなしに写真を撮られてました。

植田さんの紹介ビデオが流される映像展示室は、部屋そのものが「カメラオブスキュラ(ラテン語で「暗い部屋」)」になっていて、伯耆大山に向けられた巨大なレンズによって、逆さ大山が壁に映し出される仕組みになっています。

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壁に映し出された逆さ大山
 

写真の仕組みを説明するのにとても良い仕組みだと思いましたが、紹介ビデオでひとつ気になる点がありました。それがカメラの説明がまだフイルムを前提としていたこと。流石に今の時代「フイルム」が分からない人も増えていることでしょう。「フイルム」を「撮像素子」って言い換えれば良いだけだったので、ここは見直してもらいたいところです。


企画展は、「STYLE 植田正治のファッション写真」。
1983年から撮影された〈砂丘モード〉を中心とした展示でした。

遠いので訪れるのは難しいと思っていましたが、機会があってよかったです。

2019年8月 7日 (水)

世界文化遺産 姫路城

出雲への旅、2日目は姫路へ・・・
 

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一度は行ってみたかったんですよ、姫路城

といっても、わざわざ姫路城だけってのもあれだしねぇ・・・
   ということで、ずっと機会をうかがっておりました。
 

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土曜日でしたけど、混雑もなくゆっくり観光できました。
ゆっくりと言っても城内を順路通り歩いただけなのですが、それでも3時間かかりましたわ
  

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千姫に仕えた侍女たちが居た「西の丸長局」から
五重6階の大天守を望む。
まだこんなに遠いのです。

菱の門から城内へ入り、まずは左手の西の丸へ。千姫も過ごした西の丸、化粧櫓から見学開始です。
千姫といえば、豊臣秀頼の妻。落城した大阪城から救い出された千姫は、その後本多忠刻と結婚しこの姫路城に入りました
 
 
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化粧櫓
 
  
本多忠刻の父は本多忠政、その父があの本多忠勝です。忠政は大阪夏の陣(1615)の功績で姫路城主となりました(1617年)。その前は本多家は桑名を治めており、1571年に信長の焼き討ちで焼失した多度大社の社殿を再建したのが当時藩主の本多忠勝でした。昨日訪れた多度大社と姫路はそういう繋がりなのです。我ながらうまく繋げたものだと自画自賛。
 
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天守へ
 
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姫路城の名物。
大天守の地階床から六階床までの各階を貫き、
数百トンの天守を支える2本の大柱。
これは西の大柱で、昭和の大修理で取換えられたもの。
元の大柱は三の丸に展示されています。

 

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武具掛け(2階かな)
できれば実際に鉄砲とかかけた状態で見せて欲しかった。
(昔はそうだったみたい)
ちなみに柱の下に見えるボックスは耐震補強隠しらしいです。
 

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これは4階かな。左に石打棚、奥は千鳥破風
 

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最上階
 

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最上階から西の丸方面を望む
 

庭園や城の周辺も歩いてみたかったですけど、残念ながらその時間はありませんでした。この日は姫路城だけで精一杯。
 

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明治、昭和、平成のしゃちほこ
明治のものは形がいいのですが、弱いんだそうです。
 

旅館やホテルに泊まって、しかも朝食をとってしまうと出発が8時、遅ければ9時になってしまい、移動時間も考えると実際に使える時間ってあまりないんですよね。今回は昼飯はほぼ抜きにしました。これで少し時間稼ぎ。そもそも朝食時間が遅いので12時過ぎてもお腹空かない・・・。
 

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三の丸にあるお菊井戸
いちま〜い、にま〜い、さんま〜い・・・」『播州皿屋敷』の舞台がここ。
実は怪談話として有名なのは『番町皿屋敷
どうやら『番町皿屋敷』のネタ元が『播州皿屋敷』みたいです。
 

この日の泊まりは、赤穂温泉

そう、あの赤穂浪士の赤穂です。

赤穂城も寄りたかったんだけどねぇ・・・。

 

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