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戦国武将

2018年9月26日 (水)

籠城のスペシャリスト依田信蕃と田中城

3月の話を今頃アップします。
 
静岡県藤枝市にある、
   4重の堀を持つ円形の縄張りの平城として有名な
 
 田中城 のお話です。
 
 
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本丸櫓の中に展示されていた立体模型
 
 
facebookには記事をアップしたのですが、検索で引っかかるブログの方にもアップしておかなきゃいけないなと思いつつ、ずっとサボってました(^^;
 
このお城を知っている人はかなりマニアックなお城ファンかもしれません。
 
少しだけ武田贔屓のアタクシとしましては、
甲斐から遠く離れた駿河の地で、
  武田滅亡のそのときまで頑張った城
      としての印象が強いです。
 
だから是非とも訪れたいと思っていました。
 
   痕跡程度しか残ってはいないのですけどね。
 
 
4重の堀になったのは江戸時代のこと。
武田時代は最外周の四の堀はありませんでした。
三の堀の外側には武田流城郭の特徴である丸馬出があって、今もその遺構をみることが出来ます。
 
 
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三日月堀(馬出曲輪)の遺構
 
 
 時は天正10年(1582年)、田中城の城将は、
 
 籠城のスペシャリストこと依田信蕃(よだのぶしげ)。
 
 依田信蕃は長篠の戦いの後、孤立無援の二俣城を徳川軍の攻撃から6ヶ月間守り続け、家康から全員助命の条件提示引き出してようやく開城。このとき、城内を清掃し整然と退去したという逸話が残っています。
 
 6ヶ月間、孤立無援で籠城し、人も物もボロボロになっているところで、綺麗に掃除するって凄くないですか???
 
 田中城も、武田氏崩壊後に開城しています。落城はしていないのです。このとき家康から仕官のオファーを受けますが、「武田勝頼の安否の詳細が判らない内は仰せに従いかねる」と一旦断り、本拠信濃国春日城に帰ったそうです。
 
 
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本丸は今は西益津小学校となっています。
1872年創立。サッカーの名波浩の母校だそうです。 
 
 
 そんな逸話から、アタクシは依田信蕃を「籠城のスペシャリスト」と呼んでいるわけです。しかし逆に攻めは苦手だったらしく、田中城開城からおよそ一年後、徳川方の武将として参戦した北条方岩尾城攻城戦で、実弟信幸とともに銃撃を受け死去しています。享年36歳。奇しくも、ノブシゲ、ノブユキという兄弟の名は、同郷のあっちの兄弟と同じですね。
 
 家督を継いだ遺児・康国には家康から松平姓と小諸城6万石が与えられたそうです。このことからも、信蕃は家康にその人柄と功績(1年しか仕えていないのにね)を認められた武将だったことが伺えます。長生きすればもっと歴史と記憶に残った武将かもしれません
 
 
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 城の東側にある下屋敷跡が公園として整備され、かつては本丸にあった櫓が移築されています。入り口には案内所がある、パンフレットがいくつか置かれています。ボランティアの方がいらしたので、いろいろ説明してもらいました。
 
 裏手に駐車場があるので、田中城攻城にはそこを利用すると便利です。日曜日というのに、車は私の1台だけでした。
 
 
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春には桜が綺麗そう。
右に見える建物が本丸櫓です。
 
 
周辺は宅地になっていますが、まだ田圃が残ります。
 
湧き水がやたらに湧くんだそうです。
 
堀の水は城内からの自噴。
 
田圃の中の田中城。
 
堀以外の土地は田圃でグズグズ。
 
足止め食っているウチに土塁の内側から射撃。
 
きっと、これが堅城であった理由でしょうね。
 
同じく、主家滅亡まで守り切った相模の忍城と似ているのではないでしょうか。
 
忍城は映画「のぼうの城」で有名になりましたが、田中城は地味なまま。
田中城も依田信蕃も、もっと知られてもいいかなぁと思いました
 

2017年7月22日 (土)

武田 vs 織田・徳川、激戦の地「長篠城・設楽ヶ原」を訪ねる

 織田・徳川連合軍が、戦国最強と謳われた武田騎馬軍団を設楽原で鉄砲隊で向かえうち、武田氏に決定的な打撃を与えたといわれる長篠の合戦
 
 先日、その古戦場を初めて訪れました。
 
 
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新城市設楽原歴史資料館
 
 
 設楽原の古戦場にある新城市設楽原歴史資料館長篠城趾、訪れたのはこの2ヶ所だけですが、もちろんこれだけではなく、付近一体が長篠城攻めから設楽ヶ原での決戦に至る一連の長篠の戦いの史跡になっております。遺構や地形がかなりよい状態で残っているんですよね。
 
 
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新城市設楽原歴史資料館
鉄砲の展示が多いです。発掘された弾丸も多数。
 
 
 武田軍の戦死者を埋葬したとされる信玄塚、長篠城攻めの際の勝頼本陣跡原昌胤の墓土屋昌次の墓内藤昌豊の墓甘利信康の墓佐久間信盛vs馬場信春の丸山の激戦地小幡信貞の墓山県昌景の墓真田信綱、昌輝父子の墓馬場信房の墓復元された馬防柵織田信長の本陣跡、などなど、見所がたくさん。
 
 かみさん連れではとても見学は無理でした。
 
 
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長篠城趾史跡保存館
長篠城は日本100名城にも選定されています。
 
 
長篠の戦い
(諸説有り)
 
 
 時は天正3年(1575年)4月、武田氏の若き当主勝頼は、徳川に奪われた長篠城を奪還すべく1万5千の兵を率いて奥三河に侵攻します。
 
 徳川方、対武田氏の最前線に位置する長篠城の城主は、信玄の死(1573年)を察知して徳川に寝返った奥平貞昌。奥平氏を味方に引き入れる際、家康は長女・亀姫を貞昌と婚約させており、貞昌は武田家に人質として送っていた妻おふうと離縁。武田勝頼は当時16歳であったおふうと、13歳の貞昌の弟千丸らを処刑しています。
 
 5月1日勝頼は長篠城の北、医王寺に本陣を構えます。城の直ぐ北の大通寺には、武田信豊真田信綱らが布陣。西側の箕原、岩代川辺には穴山信君小山田昌辰、そして城の東側の鳶ヶ巣山武田信実姥ヶ懐三枝守友
 
 
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長篠城本丸から鳶ヶ巣山方面を望む。
手前の線路はJR飯田線
 
 
 長篠城の守備兵は、僅かに五百
 
 武田軍に完全に包囲され孤立した長篠城は
 
      ま・さ・に
      絶対絶命
 
 
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長篠城趾、北側の土塁と堀
 
長篠城は南と東西の三方を川そして絶壁に囲まれた
自然の要塞とも言える場所にありました。
 
しかし北側はなだらかで比較的防御が難しそうです。
もちろん堀や土塁、柵などの防御施設が造られていたとはいえ、
目と鼻の先のまで来ている武田軍を
僅か500の兵で持ちこたえたというのは
並大抵のことではないと思われます。
 
設楽ヶ原では馬防柵の向こう側の鉄砲隊に突撃を敢行した武田軍ですから
全軍で本気で攻めれば落とせたでしょう。
織田・徳川連合軍の主力との決戦に備え兵力を温存したかったのでしょうが
結局、決戦の際に長篠城の牽制に3千の兵を残さざるを得ず、
しかも徳川方の奇襲攻撃でそれを壊滅させられてしまったのですから
数千名の兵を失っても強襲して落としておくのが
結果論から言えば正解だったような気がします。
 
 
 奥平貞昌は、岡崎城の徳川家康に援軍を求めます
 
 
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長篠城 血染めの陣太鼓
 
 
 密使として、包囲網を突破し見事大役を果たしたのが、
 
            かの有名な鳥居強右衛門
 
ところが、家康への援軍要請は成功したものの、長篠城に戻る際に武田軍に捉えられてしまいます。
 
 
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勝頼は助命を条件に
 「援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ
  と城に向かって叫ぶように強右衛門に強要します。
 
しかし強右衛門は
 
   「援軍はあと二、三日で来る。それまで持ちこたえよ
 
と城に向かって叫び、処刑されたというお話でございます。
 
これが5月16日の出来ごと。
 
 
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長篠城から強右衛門磔の場を望むことが出来ます。  
 
 
 一方、岡崎城には既に織田の大軍が到着しており、長篠へと軍を進めます。
徳川軍と合わせ、その数およそ3万8千。どえらい大軍だがね。
 
 5月18日織田・徳川連合軍は長篠城南西およそ3キロの設楽ヶ原まで進軍。そして2日の間に南北2キロの馬防柵を連吾川に沿って築きます
 
 5月20日勝頼は決戦を決意し、軍を設楽ヶ原に進めました
 
この際、信玄以来の重臣は決戦回避を進言しましたが、勝頼の近習は決戦を主張、結局、勝頼は決戦を決意したと伝わります。
 
 武田軍は長篠城の牽制に3千を残し、残り1万2千を連吾川の東の高台に、織田・徳川軍を見下ろすように展開します。
 
 
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新城市設楽原歴史資料館から織田・徳川連合軍布陣の地の眺め
資料館付近は内藤昌豊の陣。
復元馬防柵のあたりは石川数正、滝川一益あたりの陣だったのでしょうか。
当時も背後が森だったとすれば、
武田方は連合軍の兵力を正確に把握できなかったというのはあり得るでしょうね。
 
 
 兵力で2倍以上、しかも陣地の前に柵を築き、鉄砲を豊富に備え、超守備的布陣を取っている敵陣に突っ込んでも、到底勝ち目は無いと思うのですが、勝頼は連合軍の兵力を見誤ったのか、焦ったのか、それとも自信過剰だったのでしょうか。
 
 一方の信長は本陣を設楽ヶ原から茶臼山まで後退させています。このあたり勝頼とは違い慎重にみえます。戦いの当事者である家康はともかく、信長は武田軍にプレッシャーを与えて、長篠城が守れれば良いくらいに思っていたのでしょうね。もしも、これで武田が出てきてくれればしめたモノ、飛んで火に入る夏の虫と。
 
 同日夜、徳川軍の酒井忠次隊を中心とする、およそ4千の兵が、密かに設楽ヶ原を迂回し、長篠城を包囲する武田軍が陣を張る鳶ヶ巣山方面に向かいました。そして夜明けを待って攻撃を開始。圧倒的な兵力差による奇襲で鳶ヶ巣山の武田軍は壊滅。これで長篠城の包囲は解け、同時に武田軍は東西から挟撃され、退路すら断たれる危険すら出てきたわけです。
 
 
Nagashino
 
長篠合戦参考図
画像のクリックで拡大します。
 
カシミール3Dで描いた立体地図に落書きしてみました。
ああ楽しい(爆)
 
馬場信房追体験コースとか、酒井忠次隊追体験コース(健脚向け)とか
ハイキングコースを整備したらもっとたのしいのになぁ
なんて思いました。
 
 
 21日朝、鳶ヶ巣山の陣が崩されてしまったことは設楽ヶ原でも分かったはずです。でもこの時点で退却という判断は流石に大将としては出来ないでしょう。もう前に出る以外に選択肢が無い
 
 まず、武田軍の最左翼、赤備えの山県昌景隊が突撃を開始し、ついに設楽ヶ原の決戦の火ぶたが切られました
 二番手は中央の武田信簾内藤昌豊、三番手は小幡信貞、四番手は武田信豊、そして五番手に最右翼の馬場信房
 
 果敢に突撃を繰り返す武田騎馬軍団を、織田・徳川連合軍は馬防柵の内側から、三段構えの鉄砲隊で打ち倒したという話が有名ですが、どうやら「三段構え」というのは、あとで盛った話のようです。
 
 
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馬場信房の最期
 
 
 午後2時過ぎには大勢は決し、武田軍は退却の法螺貝を吹いて、豊川沿いに撤退を開始。この戦いで多くの重臣、名将を失った武田氏は、一気に滅亡への道を突き進むことになるわけですな。
 
 奥平貞昌は、この後、信長の「信」を貰って(諸説有り)「信昌」と改名。 新城城を築城し、この戦いで大きく損壊した長篠城は廃城となっております。
 
 
 そんな、長篠の戦いですが、地元一押しは、武田軍の攻撃を寡兵で持ちこたえた若き長篠城主「奥平貞昌」でも、敗走する武田軍の殿を努めて討ち死にした武田の名将「馬場美濃守信房」でもなく、密使に走った足軽、鳥居強右衛門のようでした。
 
 
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陰毛と脇毛がトレードマークのようです。
 
 
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はたして小学校のキャラクターに相応しいんだろうか??
忠義の人って観点ですかね。
今の時代で考えればブラック企業っすけど。
 
 

2016年6月 5日 (日)

初めての大阪城

大阪城には南側、玉造口から入りました。
 
 
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それにしても大陸からの観光客の多いこと
 
聞いてはいましたが、これ程とは・・・。
 
日本人は1割くらいしか居ないんじゃないかと思うくらいでした。
 
 
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玉造口の 銃眼を備えた笠石
 
 
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豊国神社と秀吉像
 
 
 夏の陣の後、大阪城は完全に破壊され、その後、徳川家によって城が建て直されたため、今日目に見える遺構は、ほぼ徳川時代のモノです。それでもやはり大阪城は太閤秀吉の城、そんなイメージが強いです。
 
 
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本丸への入り口「桜門
 
 
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「桜門」を入ると、度肝を抜かれるような巨石が。
いったい、どうやって運んだんじゃろ。
 
 
田舎の小さな城とは違い、本丸まで遠い、遠い。
 
 
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本丸より天守閣を望む。
 
 
 折角ココまで来たのですから、
        天守に登らずに帰るわけにはいかないですよね。
 
 
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天守閣最上階から南側を望みます

 
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天守閣内の展示物
連れの方に母国語で解説されている外国人の方が
かなりいらっしゃいました。
「トヨトミがどーたら、こーたら」と。
 
 
江戸期に建てられた建造物で重要文化財にもなっている
  多聞櫓千貫櫓焔硝蔵が公開されていたので
                 それらも見てきました。
 
 
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大手口多聞櫓の内部
1628年ごろ創建されたましたが落雷で焼失
1848年に再建
 
 
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千貫櫓
1620年 創建
大阪城内に現存するもっとも古い建物のひとつとのこと
 
 
櫓と言っても城の規模がデカイ分、広くて天井も高いですね。
 
 
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焔硝蔵、いわゆる火薬庫。
入り口でボランティアの方が、
「この蔵は貞享二年に建造され・・・」
などと 説明してくれているのですが、
「貞享二年は西暦何年ですか?」
と訪ねられ、しどろもどろに。
 
焔硝蔵は西の丸の一角にあります。
 
 
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西の丸庭園からの天守の眺め
 
 
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西の丸庭園
 
 
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西の丸庭園ではこんなのも公開(迎賓館内)
 
 
見学を終えて外に出ようと思ったのだけれど、
       最寄りの出口がどこにあるのか分からない(@_@)
 
         くるくる回ってしまいました(^^;;
 
 焔硝蔵 からは京橋口が近いなって思ったんだけど、行けないんだね。
 
 
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大手門を出て、外から堀越に千貫櫓を
 
 
  結局 大手門から退城

2016年6月 4日 (土)

大阪・真田丸の旅

「古くからの・・・」と言っても、オンライン上での知り合いなので、会ったのは十数年前に2回ほどという友人の 2回目の個展を観に行くことを口実に、大阪へ。
 
往復とも夜行バス。
 
大阪・京都と河口湖・富士山駅を結ぶフジヤマライナー
 
富士急と近鉄のコードシェア便です。
 
 
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富士宮から大阪までは、
   3列シート便では7,400円
   2人掛け4列シート便は5,400円
 
今回は帰路の3列シート便が満席だったので、
        「行きはよいよい、帰りは辛い」で。
 
 
 大阪の街をぶらぶらと歩くのはたぶん初めて
 
         少なくとも物心ついてからは。
 
 
まず、午前中は大坂冬の陣の世界に浸る企画です。
 
まずは、阿部野橋(いちおう茶臼山)に着陣。
 
 
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JR天王寺駅前から日本で最も高い超高層ビル「あべのハルカス」を望む。
 
あべのハルカスは近鉄阿部野橋ターミナルビルなので、
近鉄バスである「フジサンライナー」は
阿部野橋=「あべのハルカス前」が終点。
期せずして日本一ののっぽビルの観光もすることに。
 
 
そこから真田丸を攻略し大阪城に攻め込ことにしました
 
              我ながら良い企画。
 
 
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   真田丸の位置を緑の線で囲んでみました。
   ボンヤリと青い太い線で書いたのは、大阪城の外堀惣構堀
   その外側に独立する形で真田丸はあったとされています。
 
 
環状線で鶴橋まで・・・楽をしました。
 
それにしても環状線は渋いですね。
    車両はなんと国鉄103系電車
 
          完全に昭和ですやん。
 
天王寺駅の発車メロディーは「あの鐘を鳴らすのはあなた
 
 
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鶴橋から日の出商店街
 
三光神社に続くこの商店街には六文銭の旗・旗・旗。
 
 
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三光神社のあたりに真田丸はあったとされ、
  境内には「真田幸村像」や「真田の抜け穴」などがあるのですが、
       最近の研究では否定されているようです。
 
 
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それでも頑張る三光神社
 
 
 ここは徳川方の築山だったということらしいですな。
             むろん諸説あるわけですが・・。
 
 
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(伝)真田の抜け穴@三光神社
 
 
実際に真田丸が存在したのは大阪明星学園付近と言われています。
 
   平成28年1月に こんな顕彰碑も出来ました。
 
 
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そして、道路を挟んで明星学園の向かい側にある心眼寺には
 
            真田幸村出丸城跡の石碑が。
 
 
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浅野文庫諸国古城之図 真田丸図面(下)に
      「寺 寺 寺」とあるその一角がこの寺だそうな。
 
 
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浅野文庫諸国古城之図 真田丸図面
勝手にコピペしたけど良かったのか・・・
 
 
 
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心眼寺の北側は崖
こういうの見ると萌えますね
 
 
   境内に入ると、なんと真田左衛門左信繁の墓が
 
 
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メッチャ、新しい墓ですやん
やり過ぎちゃうの?
 
 
真田丸をようやく攻略し、大阪城へ。
 
 ところが辿り着いた大阪城は、
   すでに明の大軍に囲まれており、すでに落城した模様。
 
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2014年3月30日 (日)

「女城主」の城として絶賛売り出し中!!  岩村城を歩く

 岩村城ってのは、あるのは知ってたんです。「信長の野望」とかにはしっかりと設定されていますからね。ただ、あまり特徴のある城としては描かれていなかったんじゃないかな。
 
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 江戸時代、藩主邸は本丸ではなく山麓、城下町の近くにありました。写真は復元された、門と太鼓櫓。岩村町歴史資料館もありましたが寄りませんでした。
 
 中世からの山城で、かつ江戸時代には岩村藩の藩庁でもありました。諸藩の居城中本丸が最も高い海抜717mにあったため、日本三大山城の一つに数えられています。ただし、もはや防御能力が必要なくなった藩主の住まいは本丸には無くて山の麓にありました。ちなみに 三大山城のあとの2つは、奈良の高取城と備中松山城だとのこと。
 
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藩主邸跡から本丸に向かう道
車道は無く、ここは歩くしかありませんが、裏から本丸直下の出丸まで登れる細い車道があります。
 
 
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 岩村は信濃と美濃の境。戦国時代は織田家と武田家の間に挟まる微妙な位置。だからこその要害堅固な山城なのでしょう。壮絶な歴史が刻まれていることは容易に想像が出来ます。
 
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霧ヶ井
岩村城付近は、霧が多く発生するため、別名・霧ヶ城とも呼ばれます。敵が城を急襲したとき、この井戸へ城に秘蔵の蛇骨を投げ入れると、忽ち霧が立ちこめ城を覆い隠したという伝説があるそうです。
 
 今、岩村城は「女城主の城」というキャッチフレーズで売り出し中。
 
 女城主というのは「おつやの方」とも呼ばれる遠山景任夫人、信長の叔母にあたると言われている女性です。修理夫人とも。
 
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本丸にある六段の石垣。
なかなか立派な厳めしい石垣ですが、もともとこのような高い石垣が設計されたわけではなく、天然の崖だった部分を、後に崩落を止めるため石垣で押さえていって出来上がったものです。
 
 織田家は、岩村城の遠山氏を懐柔するために姻戚関係を結びました。ところが1571年、当主の遠山景任は若くして亡くなってしまいます。そこで信長は自分の5男「坊丸」を養子として送ります。坊丸はまだ幼かったため、実質的に采配をふるったのが、信長の叔母である遠山景任の未亡人だったということで、「女城主の城」というわけです。
 
 さらに、この話には壮絶な続きがあります。1772年、いわゆる信玄の西上のひとつとして武田方の秋山信友(虎繁)が岩村城を攻略します。要害堅固な岩村城はなかなか落ちなかったようですが、信友がいわゆる「女城主」であった夫人を妻に迎え、坊丸を世継ぎにするという条件で開城、武田方に下ります。坊丸は人質として甲府へ送られました
 
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本丸、長門埋門付近からの展望。遠くに白く輝く中央アルプス南部の山々が見えます。
 
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100円入れると説明が流れるそうですが、なんとなく・・・動くかどうか不安(笑)
 
 1775年長篠の合戦後、弱体化した武田家の領内に織田家・徳川家が侵攻。岩村城攻めは、織田信忠を総大将にして行わました。結局、信友夫妻は和議を申し入れ助命される約束で開城したのですが、信長は約束を反故にして、礼を述べに言った彼らを捕らえ、長良川河川敷で逆さ磔で処刑したとのこと。そりゃそうでしょうね、養子とした自分の5男を甲府に送っちゃった人たちですから。
 
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どうやら現在、城主として本丸を守っているのはカモシカのようでした。
 
 観光客がゾロゾロ来るというようなお城では無く、駐車場から本丸までの約800mをのんびりハイキング気分で歩くことができます。城好きの方にはオススメです。
 

2013年8月24日 (土)

国宝彦根城にひこにゃんを見に行くの巻

 天守が現存する数少ない城の一つである彦根城は、かねてから訪れたいと思っていたところでした。あたくしは城マニアではないですが、嫌いではない方なのです。彦根城は江戸時代に井伊氏によって築かれた平山城。以後、幕末まで、井伊氏の居城でした。
 
20130805dsc05590  宿泊したキャッスルホテル側・・佐和口側から見た彦根城。平山城的な感じが分かります。お堀に映った佐和口多聞櫓の白壁も綺麗。
 
 彦根城は1992年に日本の世界遺産暫定リストに掲載されましたが、以後放置プレイ。同類、しかも明らかに格上の姫路城が既に世界文化遺産に登録されていることから単独での登録ではまず不可能でしょう。残るは姫路城への構成資産の追加という手ですが、日本ではまだそのような試みはされたことがないので、きっと実現しないでしょうね。
 
20130805dsc05627  山城、平山城の場合、天守は狭い本丸から見上げるような形になり、天守を格好良く写すのが難しいです。上すぼまりで写っちゃうんですね。この写真では、その上すぼまりを少し修正してあります。多少は格好良くなったかな。
 
 豊臣政権時、このあたりは石田三成の領地でした。居城は「治部少(三成)に過ぎたるもの・・・」のひとつ佐和山城。関ヶ原の戦いの後、徳川四天王の一人・井伊直政がこの城に入城したものの、三成の居城だった城が気に入らなかったようで、彦根城の築城を計画。直政は翌々年に亡くなってしまいましたが、家督を継いだ直継が彦根城を築いて居城を移しました。その際、佐和山城の建造物は彦根城へ移築されたもののほかは徹底的に破壊されたそうです。直継はこの地に根強く残る三成の威光を払拭したかったのでしょう。三成に関してはあまりよい伝説が残っていないようですが、直継にそれほどのことをさせるとは、実際は善政を行った名君だったのでしょうね。佐和山城址も機会があったら出かけてみたいところです。
 
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     現存天守だけに階段はこんな感じ・・・急!
 
20130805dsc05760  琵琶湖岸からの要塞として機能した西の丸三重櫓から山崎山道を望みます。ここから鉄砲でばんばんと・・・って、ここまで攻め込まれたらもう時間の問題でしょうが。
 
20130805dsc05779  城内にある庭園「玄宮園」から天守を望みます。夏でこれだけの景色なのだから他の季節ならもっと良さそうです。
 
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 城内にある東高。工事中でしたが、夏の甲子園出場(初)ということで垂れ幕が下がっていました。赤鬼魂の「赤鬼」というのは「井伊の赤鬼」からでしょうね。前日の宿泊地だった大垣も「大垣日大」が甲子園出場。たまたまなんですが、ちょっとびっくりです。
 
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 城内にある彦根城博物館は彦根城の表御殿を復元した建物で見応えがありました。オススメ。
 
 
 さて、ご当地ゆるキャラが全国的に氾濫してる今日この頃ですが、その火付け役となったのが、彦根城に住む「ひこにゃん」。2007年に彦根城築城400年祭のイメージキャラクターとして登場し、人気はたちまち全国的に。全国メディアでの露出度は減ってしまいましたが、今も彦根のキャラクターとして元気に活躍中です。
 
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    ひこにゃん登場
 
Wikipediaによると、
江戸郊外武蔵国荏原郡世田ヶ谷村(現・東京都世田谷区豪徳寺)の豪徳寺で、彦根藩の2代目藩主・井伊直孝がにわか雨にあって大木の下で雨宿りをしていた際に、手招きをする白猫を見て近寄ったところ、直後に大木に雷が落ちた。この白猫のおかげで難を逃れたと感じた直孝は感謝し、のちに豪徳寺を井伊家の菩提寺とした。この白猫の伝説、いわゆる「招き猫発祥伝説」のひとつを元に想起された。
のだそうです。
 
20130805dsc05667    「と・・・取れにゃい・・・」の定番ボケ連発。
 
 YouTubeなどでよく見てはいたものの、現物を見るとやはりインパクトが違います。登場前には、「意外と横幅が広いので注意してください。通路を確保して・・・」とアナウンス。その通り、映像でのイメージ以上に顔がデカイ
 
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 さすがに炎天下のパフォーマンスは辛いのか、休憩を挟んでの30分のパフォーマンスでした。
 
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     はいっ! の決めポーズ
 
 
 お城を見学した後は、夢京橋キャッスルロード四番町スクエアあたりをぶらり。
 
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    夢京橋キャッスルロード
 
 夢京橋キャッスルロードは江戸期の建物・風情を再現した、土産物屋や飲食店が並ぶ商店街で1999年に完成。キャッチコピーは街角ルネッサンス〜オールド・ニュータウン・・・横文字多すぎ(笑)。彦根のメインの商店街は佐和口側、JR彦根駅と彦根城を結ぶ通りにあって、当時こちら側は開発から取り残されていたんだそうです。たぶんほとんど更地にして立て直したんでしょうね。町並みは完全に統一されすっきりとしています。
 
20120805dscf3022     突然の強い雨に、雨宿り、雨宿り・・・
 四番町スクエアは大正時代の町並みを再現というのがコンセプトの商店街らしいです。なぜか藪内佐斗司さんの作品・・六童子が・・・藪内さんといえば、ひこにゃん後、キモかわいいキャラクターとして妙な人気を博し、ゆるキャラがさらに注目される弾みとなった「せんとくん」の生みの親。四番町スクエアが誕生したのは2006年ですから、これらの六童子が置かれたのは、ひこにゃんやせんとくんの誕生する前なんでしょうね。不思議な因縁を感じます。
20120805dscf3007       四番町スクエアにあった六童子の中の一体
 
 少なくとも彦根城近辺は、お城を中心に、なかなかよく作られた観光の町・・という印象でした。

信長、天下布武の夢ー安土城跡を訪ねる

 今回の旅の一番の目的地は安土城でした。信長、天下布武の城。ここは名古屋で生まれ育った私には特別な意味を持つ、一つのあこがれの場所なんですね。小学生のときだったか、NHKの大河ドラマ「国盗り物語」で戦国時代にはまったんです。たぶん同世代ではそういう人多いんじゃないかなぁ。ガマの油売りー斎藤道三が平幹二朗、織田信長が高橋英樹、明智光秀を近藤正臣、木下藤吉郎ー羽柴秀吉を火野正平、濃姫が松阪慶子。それそれの武将のイメージがこのドラマの配役で、長く私の中に定着してしていました。
 
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             織田信長@信長の館
 
 といいながらも、安土城跡を訪れたことは一度も無かったわけですから、その程度のもんなんですがね(^^;
 
20130804dsc05194           安土城入り口受付
 
 数年前の情報では駐車場などないようなことが書かれていたんですが、今は立派な駐車場が出来ています。昔の状態を知らないのでなんとも言えませんが、城跡もかなり整備が進んでいるんだろうなと思います。
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 まっすぐに続く大手道。
 平成元年から始まった平成の発掘以前には、摠見寺の境内を通る道が大手道とされていました。発掘の結果、大手道は幅6m、長さ180mのまっすぐな道であったことが判明。今はそれが復元され、歩くことができるようになっています。戦国の城なら場内通路は防御性を考えて屈曲させて造るのものです。この大手道だけから見ても安土城は戦うための城ではなかったことが想像できます。やはり見せるための・・権力を示すための城だったのでしょう
 
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 大手道の階段の所々に石仏が埋まっています。比叡山を焼いた信長らしい所業ですな。
 
 もちろん、この安土城、天守閣などの城郭の建物は一切残っておりません。そこにあるのは修復、復元された石垣と階段で、あとは往時に思いを馳せるのみ・・それもまたいいじゃありませんか。
 
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20130804dsc05267            天守跡 礎石が残っています。
 
 安土城はこの程度の復元具合がちょうどいいように思います。変な建物など復元しない方がいいですね。
 
 築城と同時に城郭内に建立された摠見寺の一部の建物が今も敷地内に残ります。
 
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 摠見寺の三重の塔
 享徳3年(1454年)建立。摠見寺創建時に甲賀長寿寺より移築されたものだそうです。
 落城の時、ここは焼かれなかったのですね。
 
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 二王門 - 入母屋造本瓦葺き楼門も元亀2年(1571年)建立の重要文化財です。
 
 一応、城跡だけではなくて、安土城の天守閣上部が原寸大で復元されている信長の館や天守のカットモデルのある安土城城郭資料館にも寄って安土城を堪能。
 
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       復元された、金ぴかの安土城天守閣上部@信長の館
 
20130804dsc05359_2            壮麗ですな。
 
20130804dsc05398          安土城城郭資料館には天守閣全体のモデルがあります。
 
20130804dsc05396       真っ二つに分かれます。
 
20130804dsc05388  内部もかなり精巧に出来ています。天守の中心にあったと言われている宝塔も、屏風絵などの内部装飾もしっかり再現されています。。
 
 信長がこの地を支配する前には、安土城が造られている山のさらに後ろの大きな山に、六角氏の本拠だった観音寺城という山城がありました。信長の野望をやるとたいてい途中で観音寺城が安土城に建て替わるイベントが発生したりするんですよね。こちらも今は石垣だけが残る城跡で、いつかは訪れてみたいところです。
 
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          観音寺城模型
  
 当時、その地域の中心となった大きな城のあった土地は、たいていは今もその地方の政治、経済の中心だったりするわけですが、徳川時代を迎えたときには既に廃城になっていたこの二つの巨大な城の城下町は、今はひっそりとした田舎町何かが違っていれば、ここが今も日本の中心だったかもしれないよね・・・という感慨に耽りつつ、のどかな風景を眺めるのでありました。

2009年9月22日 (火)

琵琶湖周辺地域、大ブレイクの予感

左肩から首、強烈な痛みで
首を動かすたびに冷や汗が出るほどである。

おごと温泉でかみさんがマッサージでも頼めというので、
やってもらったのが間違いだったかもしれない。

それまでは、普通の状態だったのに
翌日からひどい状態になってしまった。

そんなことで、
滋賀からの帰途の運転は結構大変だったのである。
 
 
本当にマッサージのせいかどうかは定かではないが
もしそうだったら、
「金を払ったのになんてこったい!」
だ。

本当は、頼んだこっちが悪いのだけどね。
 
 
さて、医王寺の仕事を引き受けた関係で
       興味を持った琵琶湖周辺の地域。

観音様以上の観光資源は「戦国時代モノ」にある。

戦国といえば、今は武将ブームであるという。
 
 
今年は、NHK大河で石田三成が大きく取り扱われている関係で
出生地であった長浜を中心に、ちょっと賑やかだ。


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【写真】長浜城歴史博物館
   LUMIX LX-3
 
 
さらに2011年のNHK大河ドラマが
「江~姫たちの戦国~」ということで、
ここに来て、かなり期待感は高まっていると思われる。
 
 
江は徳川秀忠の正室。
父は浅井長政、母は信長の妹のお市の方。
浅井は織田信長に滅ぼされ、
お市はその後3人の娘を連れ、柴田勝家に嫁ぐも
勝家もまた賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れるのである。
 
浅井家は湖北の大名、賤ヶ岳も湖北、
秀吉が初めて城を持った長浜、信長の安土城も
この地域に集中しているのである。
 
2011年に向けて
かなり綿密な観光PR作戦を練っているに違いないのだ。
 
 
琵琶湖周辺地域、大ブレイクの予感(^^)

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【写真】長浜 黒壁スクエア周辺
  LUMIX LX-3

2009年3月 1日 (日)

大須・万松寺

数年前から戦国武将ブームらしいですね。

それも若い女性の間で。

長宗我部元親とか、大谷吉継とか、
地味な武将もかなりの人気なようです。

そもそも今年の大河ドラマ「天地人」の
直江兼続なんて、地味な大名の家来・・・。
 
「戦国武将に理想の男性像を追い求めている。」
なんて分析もありますが、
         どうなんでしょうね。


私は・・・かなり好きでした。

原点は小学生時代に遡り・・・

 1973年のNHK大河ドラマ「国盗り物語」になります。


これは、道三と信長が中心の激しい戦国ドラマ。

名古屋に暮らしていた私にとっては、まさにご当地大河でした。
 
 
道三:平幹二朗、信長:高橋英樹、
秀吉:火野正平、光秀:近藤正臣

私の中ではこのキャストが
その武将の固定イメージになってしまっています。
 

平幹二朗の蟇の油売りのシーン、
顔をヒクヒクさせて怒る高橋英樹の信長 など
         いまだに覚えています。
 
でも、もう35年も前の作品なんですねぇ・・・
それぞれの俳優さんの年齢を考えてみると、
当時そんなに若かったんだぁ〜と、
ちょっとビックリします。
 
 
その他、当時戦国ものとして印象に残っているのは
『真田十勇士』(1975-1977 NHK)ですかね。
これで、完璧に戦国マニアになったかも・・・です(^^;

さて、最近、高速のSAではこんなお土産を見かけます。

マイスタージャパン 戦国武将 ARMOR SERIES

Dsc01063で、上郷SAで買っちゃいました。
「信長」「秀吉」「家康」がありましたが、
一番地味な「信長」を、安いBタイプで。

できはそこそこですが、
1000円ちょっとと安いので、
気軽に買えます。

これ、「お土産限定」なんて
書いてありましたけど
amazonなんかでも売ってるみたい。

こちらはもっと出来がいいみたい
・・・高いけど。
http://www.boford.co.jp/html/tenkabito.html
http://www.boford.co.jp/html/tenkabito2.html

こんなのもあるし・・・(^^;
        長篠の戦い


さて、コメ兵のある大須。

ここはまた
信長ゆかりの地でもあります。
 
  
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【写真】LUMIX LX3  大須・万松寺にて
  かなり厳しい光の中で、手前のお線香と炎にフォーカス
 後ろの人が、人とわかる程度にぼかし・・・
 LX3の真骨頂が発揮される場面。
  
  
 
大須・万松寺は信長の父、織田信秀が開基したお寺で、
信秀の葬儀のもこの寺で行われました。
 
茶筅まきの髪、腰に荒縄の帯という出で立ちで現れた信長が
抹香を大きく手づかみにするなり信秀公の位牌に投げつけたという
あの有名な逸話の舞台なのです。
 
 
ただしその時代には、
万松寺は現在の中区錦及び丸の内二、三丁目あたりにあって
慶長一五年(一六一○) 名古屋城を築くにあたって
大須に移ったのだそうです。
 
 
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【写真】LUMIX LX3  大須・万松寺にて
 逆光がいい感じ・・・
 どうしても反応してしまう、私の大好きな光です。
 コンデジで、これだけ写ってくれれば満足です。
 

信長の鎧フィギュアを買ったからというわけではないですが、
ちょっと寄り道してきました。

おまけに、帰りがけには桶狭間古戦場あたりを車で走ってみたりして・・・(^^;
 
 
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【写真】LUMIX LX3  大須・万松寺にて
 これも逆光で・・・・

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