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2018年9月

2018年9月26日 (水)

籠城のスペシャリスト依田信蕃と田中城

3月の話を今頃アップします。
 
静岡県藤枝市にある、
   4重の堀を持つ円形の縄張りの平城として有名な
 
 田中城 のお話です。
 
 
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本丸櫓の中に展示されていた立体模型
 
 
facebookには記事をアップしたのですが、検索で引っかかるブログの方にもアップしておかなきゃいけないなと思いつつ、ずっとサボってました(^^;
 
このお城を知っている人はかなりマニアックなお城ファンかもしれません。
 
少しだけ武田贔屓のアタクシとしましては、
甲斐から遠く離れた駿河の地で、
  武田滅亡のそのときまで頑張った城
      としての印象が強いです。
 
だから是非とも訪れたいと思っていました。
 
   痕跡程度しか残ってはいないのですけどね。
 
 
4重の堀になったのは江戸時代のこと。
武田時代は最外周の四の堀はありませんでした。
三の堀の外側には武田流城郭の特徴である丸馬出があって、今もその遺構をみることが出来ます。
 
 
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三日月堀(馬出曲輪)の遺構
 
 
 時は天正10年(1582年)、田中城の城将は、
 
 籠城のスペシャリストこと依田信蕃(よだのぶしげ)。
 
 依田信蕃は長篠の戦いの後、孤立無援の二俣城を徳川軍の攻撃から6ヶ月間守り続け、家康から全員助命の条件提示引き出してようやく開城。このとき、城内を清掃し整然と退去したという逸話が残っています。
 
 6ヶ月間、孤立無援で籠城し、人も物もボロボロになっているところで、綺麗に掃除するって凄くないですか???
 
 田中城も、武田氏崩壊後に開城しています。落城はしていないのです。このとき家康から仕官のオファーを受けますが、「武田勝頼の安否の詳細が判らない内は仰せに従いかねる」と一旦断り、本拠信濃国春日城に帰ったそうです。
 
 
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本丸は今は西益津小学校となっています。
1872年創立。サッカーの名波浩の母校だそうです。 
 
 
 そんな逸話から、アタクシは依田信蕃を「籠城のスペシャリスト」と呼んでいるわけです。しかし逆に攻めは苦手だったらしく、田中城開城からおよそ一年後、徳川方の武将として参戦した北条方岩尾城攻城戦で、実弟信幸とともに銃撃を受け死去しています。享年36歳。奇しくも、ノブシゲ、ノブユキという兄弟の名は、同郷のあっちの兄弟と同じですね。
 
 家督を継いだ遺児・康国には家康から松平姓と小諸城6万石が与えられたそうです。このことからも、信蕃は家康にその人柄と功績(1年しか仕えていないのにね)を認められた武将だったことが伺えます。長生きすればもっと歴史と記憶に残った武将かもしれません
 
 
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 城の東側にある下屋敷跡が公園として整備され、かつては本丸にあった櫓が移築されています。入り口には案内所がある、パンフレットがいくつか置かれています。ボランティアの方がいらしたので、いろいろ説明してもらいました。
 
 裏手に駐車場があるので、田中城攻城にはそこを利用すると便利です。日曜日というのに、車は私の1台だけでした。
 
 
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春には桜が綺麗そう。
右に見える建物が本丸櫓です。
 
 
周辺は宅地になっていますが、まだ田圃が残ります。
 
湧き水がやたらに湧くんだそうです。
 
堀の水は城内からの自噴。
 
田圃の中の田中城。
 
堀以外の土地は田圃でグズグズ。
 
足止め食っているウチに土塁の内側から射撃。
 
きっと、これが堅城であった理由でしょうね。
 
同じく、主家滅亡まで守り切った相模の忍城と似ているのではないでしょうか。
 
忍城は映画「のぼうの城」で有名になりましたが、田中城は地味なまま。
田中城も依田信蕃も、もっと知られてもいいかなぁと思いました
 

2018年9月22日 (土)

Fringer EF-FXマウントアダプター

 もう2ヶ月近く前の話なのですが、FringerのEF-FXマウントアダプター購入しました。
 
 FringerのEF-FXアダプターには「pro」と「standard」の二種類あり、 「pro」はマウント側に絞りリングがついています。「standard」は絞りの調整がボディー側でしか出来ません。でも、絞りを変えながら動体を撮影しようとか、そんな用途でない限り、「standard」でいいのではないかと思います。私も「standard」。
 
 
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X-T10 + EF 70-200mm F4L USM
 
 
そして、「EF 70-200mm F4L USM」 を現役復帰させました。
 
もちろん、EOS用レンズは他にも色々持っているのですけれど、何れもでかすぎてT10やT20のマウントがもげてしまいそうなんですよね(笑)
 
 
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X-T20 + EF 70-200mm F4L USM
 
 
 ところで、この「EF 70-200mm F4L USM」は1999年 8月の発売で、私が購入したのも随分前なのですが、このレンズは今もラインナップされているんですね。
 
  後継機種がIS(ブレ防止)機能付きだったため、IS無しバージョンとして生き残ってるんです。
 
 そろそろ発売20周年じゃないですか。これには、ちょっとびっくりでございます。
 
 
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X-T20 + EF 70-200mm F4L USM
 
 
 オールドEOSだからなのかAFの動きがあまり良くなく、MFでの使用がメインにはなりますが、それでも想像以上に画質は良好です。
 
 
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X-T20 + EF 70-200mm F4L USM
 
 
 実は、沖縄旅行用にFJIFILM Xシリーズの廉価望遠ズーム「XC50-230mmF4.5-6.7 OIS II」を購入して持っていったのですが、画質は「EF 70-200mm F4L USM」の方が上かもしれません。
 
 
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X-T20 + EF 70-200mm F4L USM
 
 
 このレンズはもともと手ぶれ補正がついていないので、手ぶれ補正の効果は不明です。そのうち他のレンズで試してみようかと思います。
 

2018年9月17日 (月)

フルサイズミラーレス時代

NikonCanonからフルサイズミラーレスシステムが発表されておりますね。
 
Nikon ZとEOS R
 
それぞれ9月、10月に発売という、なかなかのシンクロぶりです
 
SONY α7の発売から5年もうこれからは一眼レフでは戦えないという認識はどちらも同じだったのでしょう。
 
 
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写真は本文と関係ありません。
 
基本仕様は
 
Nikon Zが
 4575万画素、max9.0コマ/秒、max感度 ISO 25,600
D850 (2017年9月発売)の
 4575万画素、max7.0コマ/秒、max感度 ISO 25,600
とほぼ同じ。
 
EOS Rが
 3030万画素、max8.0コマ/秒、max感度 ISO 40,000
 で
EOS5DⅣ (2016年9月発売)の
 3040万画素、max7.0コマ/秒、max感度 ISO 32,000
とほぼ同じ。
 
発売時期に差があるわりには、進化させてないなぁ・・・という印象も受けますね。
スペックを詳細に見たわけではありませんが、「驚き」はないような・・・。
レンズ資産があるとはいえ、最近はマウントアダプターが進化してますからね〜
大丈夫なんですかね。
 
一眼レフからミラーレスへの転換って、たぶんレンジファインダーから一眼レフへの転換に似てるんだと思うんですね。
 
一眼レフの実力を世界に認識させた名機「ニコンF」の発売が1959年、レンジファインダーの完成形と云われた「ライカM3」が生産されたのは1966年まででした。
 
ライカも1965年に一眼レフ「ライカフレックス」を発売してます。しかし、このカメラは「素通しファインダー」という一風変わった仕様で、中央のマイクロプリズム部分でしかピントを合わせることができないものだったそうです。露出計も外部測光という時代遅れの代物。当然ながら売れない・・・・。
成功体験を引きずった王者からの転落コースの典型(^^;;
 
何度かモデルチェンジした後、結局、1976年にミノルタXEをベースにしたR3を発売、1994年のR7までミノルタ機ベースの機種が続きました。欲しかったなぁ・・・ベースになったXEもXDも好きなカメラだったんですよね〜。
 
話が脱線しましたが、そういうことにならないように、2社には頑張って欲しいものでございます
 
 
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写真は本文と関係ありません。
 
 
で、また脱線したほうに話を戻しますけど(笑)
 
ライカって、デジタルへの転換はびっくりするほど早かったですよね。
あたしはM型ライカって、フイルムと心中するのかと思ってましたから。
2006年9月発売の「ライカ M8」で、シリーズ名称も変えずにシレッとデジタル化しちゃった。これには驚きました。過去の教訓が活かされたのでしょうか。
 

2018年9月15日 (土)

初めての沖縄 ⑫ 普天間そして嘉手納

オキナワと言えば、米軍基地です。
 
最低限、普天間は見ておかないと、オキナワに行った意味が無いですよね。
 
それと、もう一つ、極東最大の空軍基地「嘉手納飛行場」をルートに組み込みました。
 
ルートに組み込まなくても、あちこち基地だらけだから、どこを通っても基地の近くは通るんです。でも、「眺められる場所」ってのは限られるんですよね。
 
普天間基地は那覇市の北、宜野湾市のある、細長い沖縄本島の、幅がキュッと狭まったところにあって、ちょっとオーバー目に言うと、東西の幅の半分が基地って状態です。
 
で、数百メートルの幅の市街地を挟んだ北側に、キャンプフォスターがまたあるんです。その数百メートルの幅の中に、幼稚園、小学校、中学校があるというね、まぁ凄いところですね。
 
 
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普天間基地を眺めるのに適しているのは
沖縄戦の激戦地でもある嘉数高台公園
 
基地の南側で、先ほど書いた小中学校とは反対側。
 
嘉数高台公園には日本軍が使用した「トーチカ」も残っています。
慰霊の地でもあるわけです。
 
 
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展望台の形は、独特で、現代のトーチカのよう。
 
 
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雨だったので、展望台には私たちの他には男性が1名しかいませんでした。
マニアの方なのか、基地反対派なのかは、わかりませんけど。
 
 
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普天間基地のオスプレイ
 
 
どっちか分からないと迂闊に声かけられないですわ。
こっちもこっちで、どっちか分からない態度で、眺めますね・・・。
それにしてもオスプレイ・・・飛んでいるところが見たかった(^^;;;
 
いや、騒音を実感したいと思っただけで・・・。
 
 
嘉手納基地の展望適地として最もよく知られているのは
   「道の駅 かでな」です。
 
 
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ここはもう嘉手納基地を眺めるためにあると言っても過言では無い施設です。
 
 
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こっちは、観光の人、航空マニア中心なんで、気は楽です。
 
 
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日テレカメラ 何か特別なことでもあった??
 
 
中国からも観光だか偵察だか分かりませんが、いっぱい来てます(^^;;;
 
騒音は凄い。でも、格好いいです。
 
 
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頻繁に離発着するF-15C イーグル
 
 
人殺しの道具は、たいてい格好いいんです。
男の子にとっては、ある種憧れですよ。。。
 
美味しいものが体に悪いのと一緒で・・・
 
罪ですな。
 
たとえが悪いな・・・
 
 
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UC-35A 中型多用途輸送機 (後方はP-3C 対潜哨戒機)
 
 
今回は展望適地からちらっと見ただけですが、基地中心にすこしユックリ見たいとも思います。辺野古も見たい。また今度・・・ってのがあるのかどうか。
 

2018年9月13日 (木)

Raw現像って表現はどうなのよ

ずっと沖縄ネタを書いていたら

 
流石に飽きてきて
 
つまらない呟きを書きたくなりました。
 
ずーっと違和感を持っているんですけど
Raw現像って表現はどうなのよ」って話です。
 
Rawデータを、
純正ののRAW現像ソフトやPhotoshop Lightroomで調整して、
TIFFやJpegデータにすることを「現像する」って言いますよね。
 
そもそも「RAW現像ソフト」なんて言っちゃってますしね。
 
もうすっかり定着した言葉ですけれど、
あたしはこの作業を「現像」って呼ぶことに
      メチャメチャ抵抗があるんです
 
だから自分自身で「RAWデータを現像した」と表現したことはありません。
気持ちが悪くて使えません。
 
なんて言うかというと、「いじった」とか「盛った」とか・・・そんな感じ。
 
 
日本語の「現像」って、そのまんま「像を現す」って意味じゃないですか。
ある意味、画像データを、ディスプレー上に表示させた時点で既に現像ですよ。
 
画像を編集、調整することは、「現像」という言葉の意味とは違いますよね。
 
なんでそれを「現像」って表現するかっていうと、英語で「Development」だからですよね。
 
写真用語のDevelopment=現像をそのまま使っているだけ。
 
「Development」には、開発とか、発展とか、進展とか、そういう意味があるわけですから、RawデータのDevelopmentで全然問題ないですよ。
 
でもよ、「現像」にはそんな意味はねぇだろーが。
 
機械翻訳かよ!!
 
 
業界団体には今一度考え直して頂きたいところだが、
そのうち広辞苑や現代用語の基礎知識にこの意味が載るのであろう。
真に嘆かわしいことではある。
 

2018年9月10日 (月)

初めての沖縄 ⑪ 備瀬のフクギ並木

備瀬の集落は、思いがけず良いところでした。
 
 
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本部半島の美ら海水族館で有名な海洋博記念公園の北、車でほんの数分のところに備瀬の集落はあります。
 
 
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フクギ並木で有名なことは知ってはいましたが、訪れる計画は立てていませんでした。
 
 
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良い雰囲気の「フクギ屋」
 
美ら海水族館を観終わって、公園内で昼食にしようと思ったんです。
ところがどこもいっぱいで、じゃあ外へということで、
一番近い飲食店をググったら、備瀬のcafeがヒットした
と、そういうわけです。
 
 
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沖縄そば@美ら海cafe
昼食に利用したのは、フクギ屋さんの向かいの美ら海cafe。
お昼時でしたが、入ってすぐ座れるくらい空いていました。
 
 
防風林として植えられているフクギはフィリッピン原産のオトギリソウ科の常緑広葉樹で、沖縄県が北限とのこと。
 
 
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フクギ並木の独特な風景
 
 
もともとは計画外でしたので、散策する時間があまりなかったのが残念です。
また、ゆっくり訪れたいところです。
 
 
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2018年9月 9日 (日)

初めての沖縄 ⑩ 神様、ハートロック様、嵐様!!

結局、沖縄までやってきても
  ビーチでちょめちょめなんていうのは無いんです。
 
 
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ウッパマビーチにて
 
 
サーフィンもダイビングもやらないし・・・
 
まぁしかし、せっかく沖縄ですから、
 一泊はビーチのあるホテルに泊まらなければ・・・
 
と思って選んだのが、
 天然ロングビーチ「ウッパマビーチ」にある
  「ベル・パライソ」というリゾートホテルでした 。
 
 
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ホテルの部屋からの眺望
 
 
 直前になってホテルを選んでいるので、選択肢が無かったのは確かですが、美ら海水族館からもそれほど遠くなく、今帰仁城跡観光、古宇利島観光にも便利なそこそこの立地です。今回は立ち寄りませんでしたが、歴史のある運天も訪れてみたいところです。
 
まわりに飲食店が少ないので、仕方なくホテル内のレストランで夕食を頂きました。意外に(失礼)美味しかったです。
 
さて、宿泊翌日は古宇利島へ。
 
島に向かう古宇利大橋では沖縄らしいロケーションのドライブが楽しめます。
 
 
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古宇利大橋
古宇利島と屋我地島とを結ぶ全長1,960mの橋。
2005年2月8日に開通した新しい橋です。
 
 
古宇利島では、嵐が出演したJALの先得CMのロケ地になったのをきっかけに有名になり、年間80万人が集まる観光名所になったハートロックなんかも行ってきました。
 
 
 
JALの先得 ハートロック編+CMメイキング
 
 
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ウェブを検索すると、ハートロックの駐車場の良からぬ評判がヒットします。
近くでは、国道から入って右側、 100円だったこの駐車場が最も安いと思われます。トイレもありますし、ビーチから帰ってきて足を洗う場所も一応はあります。
 
 
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ハートロック
二つの岩が重なるとさらにハートに見えるということですが、
左の岩だけでも既にハート型です。
 
 
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ハートロックのあるティーヌ浜の隣、トケイ浜のポットホール。
ハートロックもこれも、浸食されやすい石灰岩で造られた芸術ですな。
 
 
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トケイ浜
 
 
ビーチはそこれくらいで、あとはお約束の古宇利オーシャンタワーと、そこからの眺望を楽しんで古宇利島をFinish。
 
 
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古宇利オーシャンタワーから、古宇利大橋を望む
 
 
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オーシャンタワー内でつくられていたお菓子はハート型。
 
神様、ハートロック様嵐様!!
 
 

初めての沖縄 ⑨ 薩摩藩の琉球侵攻と今帰仁城

 琉球北部を支配した北山の王城今帰仁城 (なきじんじょう)」は、1416年、後に琉球王国の2代目の王となる、中山の尚巴志王(しょう はしおう)が率いる連合軍に攻められ落城しました。
 
 
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今帰仁城 正門付近
 
 
 琉球が統一された後は首里城から派遣された監守が置かれ、今帰仁城は引き続き本島北部支配の中心として機能していたようです。
 
 
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今帰仁城 主郭
 
 
そのおよそ200年後・・・
今帰仁城は薩摩軍の侵攻を受け、再び落城の憂き目を見ることになります。
 
当時薩摩藩は、朝鮮出兵や関ヶ原の戦いで国力が低下し、財政難に陥っていました。
 
そこで、中国交易の利権獲得などを狙い、家康の許可をとり付けて、琉球征伐を実行したのです。
 
 
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今帰仁城 正門前
 
 
 1609年3月、薩摩軍の琉球王国への侵攻が開始されます。Wikipediaによると「総勢3000人、80余艘であった」とあります。薩摩一国だけということもあり、そんな大軍勢というわけではないですよね。
 
薩摩軍は奄美大島、徳之島、沖永良部島と次々に攻略。
 
とはいえ激しい戦いがあったわけでは無く、例えば大島の按司は首里を見限りさっさと薩摩に味方しちゃったりしています。
 
 
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運天園地から古宇利大橋を望む。
この右手に運天港、運天の集落があります。
ここに薩摩軍がまず上陸
 
 
 3月25日、薩摩軍は、ついに沖縄本島、今帰仁の運天港に上陸
 
 本来なら今帰仁の守備の要であるはずの今帰仁城ですが、「27日には今帰仁城に行ったが、既に空だったので放火した」と琉球出兵に従った肝付兼篤からの書状に書かれているようで、どうやらさっさと敵前逃亡してしまったようです。
 
 
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今帰仁城から海を望む
 
 
 結局、琉球王朝は薩摩に降伏し、その支配下に置かれることになります。
     薩摩出兵後、わずか一ヶ月で・・・・です。
 
 
 琉球王家は存続したものの、今帰仁城はそのまま廃城となり、周辺の住民も海岸の方へと移っていったということです。
 
 
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今帰仁城

 
 
 この琉球の薩摩侵攻の時代はNHK大河ドラマでも描かれています。1993年1月〜6月に放映された『琉球の風 DRAGON SPIRIT』がそれです。ですが私には全然記憶にありません。前年放映の、緒方直人の信長『 信長 KING OF ZIPANGU』 や、同年7月から放映された、奥州藤原三代を描いた『 炎立つ』は観ていた記憶があるのに・・・です。興味が無かったのでしょうね。要するに、沖縄に対する興味がそんなもんだったってことです。ちなみに、『 琉球の風』は 、沖縄県では第1回の放送の視聴率が82%に達したそうです(Wikipedia情報)
 
 
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今帰仁城
  
 
 それにしても、琉球軍はなぜろくに戦うこともせず、簡単に征服されてしまったのでしょうね
 
 琉球王国の尚永王が1588年に死去。尚永王には後継者がいなかったため、首里尚家に代わり傍流の浦添尚家から尚寧が琉球王を継いでいたんですね。なので、権力基盤も脆弱で、おそらく王の人望も無かったのでしょう。
 
もちろん、頼みの綱「明」の国力が低下しており、薩摩を牽制することができなかったというのも、理由の一つだと思います。
 

2018年9月 8日 (土)

初めての沖縄 ⑧ 勝連城と中城

 グスクの話をもう少し(^^)
 
 
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沖縄市のホテル グランメールリゾートに泊まり
勝連城と中城城へ。
 
 
今回、4日目と5日目に訪れた勝連城(かつれんぐすくあと・かつれんじょうあと)と中城城跡 (なかぐすくじょうあと)は直線距離で約9.5kmしか離れていません。車なら30分もかからない距離です。
 
 
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勝連城跡
インスタ用にかなり盛った画像ですが、海が間近に見える城跡というのはいいですね。
今回訪れたグスク全てから海が見えました。
改めて沖縄は海の民だなぁという思いを強くしました 。
 
 
 この二つの城が、有名な「護佐丸・阿麻和利の乱(ごさまる・あわまりの乱)」の舞台となりました。
 
  "有名な"とサラッと書いてしまいましたが、私は全然知りませんでしたwww
  とにかく、沖縄の歴史について全然知らない(^^;;;;
   少しは勉強しなくちゃと、反省しております。
 
  
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霊石@勝連城跡
城(グスク)はいわゆる軍事的な「城」としてだけでなく、
宗教的な中心、祈りの場としての機能も有していたそうです。
 
 
 15世紀の中頃、勝連城を根拠地とする茂知附按司が勢力を拡大すると、それに対抗するために、王府は中城の増強を護佐丸に命じ、その按司に任命します。
 
 護佐丸北山王国統治以前の今帰仁城主の血を引くと言われた琉球王国第一尚氏王統建国の功臣、北山王国を滅ぼし、北山の統治に尽力、中国や東南アジアとの海外交易も進め経済的にも琉球王国を支えた人物です。
 
 
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沖縄市のホテル「オキナワグランメールリゾート」の客室から
勝連城方面を望む
このホテルは、勝連城と中城のちょうど真ん中あたりに位置します。
 
 
 その後、悪政を強いたと言われる茂知附按司は阿麻和利に倒され、阿麻和利が勝連城の按司になりました。阿麻和利は有能だったようで、東アジアとの貿易を進め、大陸の技術などを積極的に取り入れ勢力を増します。まだ盤石では無かった琉球王朝にとっては脅威に感じられたのでしょう。琉球王である尚泰久は、中城の護佐丸に阿麻和利の動きを牽制させつつ、娘を阿麻和利に嫁がせるなど懐柔策も取っています。
 
 
20180801dscf8866
 
中城 正門
布積みの頑丈な石垣です
 
 
 しかし、1458年8月、護佐丸・阿麻和利の乱が勃発します。
 
 王府史書によると、「阿麻和利に対抗するため護佐丸が兵馬を整え、これを阿麻和利が護佐丸に謀反の動きがあると王府に讒言。琉球王である尚泰久王(しょう たいきゅうおう)が阿麻和利を総大将に任じ、中城城を包囲すると、王府軍と聞いた護佐丸は反撃せず、妻子とともに自害した。」とあります。
 
 阿麻和利は、さらに琉球統一をめざし首里城を攻めましたが、敗北し逆に滅ぼされてしまいました
 
 
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中城城跡 二の郭
美しい曲線が印象的です。
 
  
 琉球王国の統一に最期まで抵抗した反骨の阿麻和利中山に忠義を尽くした護佐丸、いずれも人気があるようですね。
 
 
20180801dscf8907
 
中城城跡 二の郭から三の郭を見下ろした図。
ここからは遠く勝連城方面が眺められます。
三の郭は護佐丸によって増築された部分で、
石積み技法としてはもっとも高度な
「相方積み(亀甲乱積み) 」で築かれています。
(一の郭と二の郭は布積み)
 
 
 しかし、護佐丸・阿麻和利の乱の十分信頼に足る記録は無く、どちらが忠臣で、どちらが反逆者だったかについては諸説あります
 
 
20180801dscf9452
 
中城城跡 南の郭にある首里遙拝所
 
 
 王府としては、有力すぎる按司である阿麻和利、護佐丸どっちもうざかったので、あえて双方を戦わせて力を削ごうと策略したという王府陰謀説もあります。
 
 阿麻和利の叛意をいち早く王府に伝えたのは、彼に嫁いだ尚泰久王の娘「百度踏揚」でした。彼女はもともと懐柔とスパイの両方の役割を担っていたのかもしれませんね。
 
 

2018年9月 1日 (土)

初めての沖縄 ⑦ グスクと石垣

 琉球王国は、1429年に第一尚氏(だいいちしょうし)王統の尚巴志王(しょうはしおう)による三山統一によって成立したと見なされています。1429年といえば室町時代ですな。
 
 
20180729dscf8044 
首里城(復元)・・・美しい石垣ですなぁ・・
戦前の写真などを参考に忠実に復元されているらしいです。
遺構と復元石垣の境目が分かるようにプレートが入っていることを
あとで知りましたが、全然気がつきませんでした・・・(^^;
 
 
 三山というのは沖縄の各地方を収めていた三つの国のことです。
 
 南部の南山(なんざん)は「南山城」、中部の中山(ちゅうざん)は「首里城」、北部の北山(ほくざん)は「今帰仁城(なきじんぐすく)」を王城としてその地域を治めていました。
 
 さらにそれ以前は、「按司(あじ)」と呼ばれる、農村集落を基盤として群雄割拠した領主的豪族層がそれぞれの土地を治めていました。彼らが築いたのが、琉球王国におよそ300余りあると言われるグスク)です。
 
 
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今帰仁城跡
 
 
 今見ることができる城跡は石垣で囲まれた立派なものです、かなり早くから沖縄の国々は高い石組みの技術を有していたということですよね。
 
 日本本土で立派な石垣を持つ城が造られ始めたのは安土・桃山時代からで、それ以前の城、砦は、土塁と堀、土塀などを中心とした構造でした。
 
 
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中城城跡
沖縄戦による被害が小さく、グスクの中でも最も原型を留めている貴重な城跡です
 
 
 沖縄で石垣構造の城が早くから出来たのは、中国 との交易を通じて大陸文化を早く吸収できたことはもちろん、そもそも台風対策として一般家屋でも石垣が積まれることが多く技術が広がり受け継がれやすかったこと加工しやすい石灰岩が豊富だったこともあるのでしょう。
 
 
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中城城跡
優美な曲線が印象的です
 
 
 ただし実際に石垣を見てみると本土の安土桃山時代のものとはかなり違います。まず材質が石灰岩で、石の大きさも小さめです。本土の城の石垣は普通は花崗岩、巨石を積み上げその隙間を小さな石を埋めるような構造です。どれだけでかい巨石を使えたかってのが、権力のバロメーターにもなってました。
 
 
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駿府城石垣
 
 
 沖縄本島の中南部を構成している琉球石灰岩は、石灰岩の中でもとくに柔らかく、加工が容易なんだそうです。琉球国が栄えた理由は琉球石灰岩のおかげ・・・って、なんだかブラタモリみたいになってきましたねwww
 
 
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国王に最期まで抵抗した有力按司である阿麻和利の居城として有名な勝連城跡
  
 
 沖縄の中でも、時代や地域によって石の積み方に違いがあります。たとえば北山の王城であった今帰仁城の石垣を見ると、ほとんど石を加工せすにそのまま積み上げた「野面積み」です。実はこの地域では加工しやすい琉球石灰岩が採取できず、比較的硬い古生代石灰岩石しか採れなかったためと言われています。
 
 
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今帰仁城
野図積みの構造が良くわかります。
 
 
 奇しくも今帰仁城では、私たちが訪れる数週間前、大雨で石垣の一部が崩れてしまいました。下の写真がその現場です。これが「野図積み」の構造の弱さなのでしょうね。石垣の内部にも細かい石が詰められているのも良くわかります。
 
 
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 これまでも何度かこのようなことが繰り返されてきたのだと思いますし、手をかけて保存していかないと意外と早く崩壊してしまうものなのかもしれません。
 
 
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今帰仁城
おそらく復元されず放置されている部分
放っておくと、あっという間にこうなってしまうのでしょう。
 
 
 とにかく沖縄の城は、建物が一切残っていないので、今見ることができるのは石垣とその縄張りの様子だけです。なので石垣を含めて破壊され、戦後の復元物だらけの首里城はあまり見るべきものが無く、野趣溢れる地方のグスクのほうが興味深いのではないかと思います
 
 
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知念城跡
下部の石灰岩は石垣ではなく、もともとの岩盤でしょうか。
石灰岩の岩盤を基礎として利用してその上に石垣を載せたのかな。
 
 

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