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2017年9月

2017年9月16日 (土)

写真展「澤田教一 故郷と戦場」@IZU PHOTO MUSEUM

 9月16日に、IZU PHOTO MUSEUM で開催中の写真展
 
  「澤田教一 故郷と戦場 」を観に行ってきました。
 
 
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 澤田教一は青森県生まれのいわゆる戦場カメラマン
 
UPIのスタッフカメラマンとしてベトナム戦争で活躍し、ピュリッツァー賞ロバート・キャパ賞も受賞した、戦場カメラマンの中では「スター」と言ってもよい存在 です。
 
 展示内容は、昨年青森県立美術館で開催された写真展をIZU PHOTO MUSEUMの会場に合わせて若干アレンジしたものだそうです。先月、日本橋の高島屋で、澤田教一展が開催されていましたが、それとはかなり内容が異なるものです。(高島屋には観に行けなかったので正確には分かりませんが)
 
 正確には、昨年の青森の写真展のタイトルには頭に"生誕80周年"という言葉がついておりました。生きておられたら80歳なんですねぇ。「故郷」とあるのは、澤田が戦争カメラマンになる前、故郷の風景や、三沢基地の様子を撮影した写真が今回初公開されているからです。
 
 なぜこの日に出かけたのかと言うと、生井英考さん(立教大学教授)、高橋しげみさん(青森県立美術館学芸主幹)×、小原真史さん(IZU PHOTO MUSEUM 研究員)の3氏によるトークイベントが開催される日だったからです。とは言っても、天気が良かったら行かなかったかもしれないんですけどね。台風の影響でちょうど良い天気?だったのが幸いしました。
 
 
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 以下はそのトークイベントで話されたネタを中心にした備忘録・・・です。
 
 2014年に青森県立美術館が澤田教一夫人のサタさんから、フィルムや電送写真原稿など、多くの資料を寄託されました。そのときフイルムのほとんどにはキャプションもなくバラバラの状態で、どれが、何時、何処で撮られたものなのか全く分からない状態だったのだそうです。
 
 それらを、出版物に掲載された写真や、撮影場所や日時の分かっている電送写真原稿と照らし合わせ、撮影場所と日時、撮影した順番を特定していったとのこと。これは大変手間のかかる作業で、立教大学の生井先生のゼミの学生の手も借りて行われたと話されていました。
 
 
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IZU PHOTO MUSEUM
 
 
 澤田はUPIという通信社のカメラマンです。写真を撮るのが仕事ですが、現像、プリント、セレクトは仕事ではありません。その仕組み故、必ずしも彼が世に出したかった写真が世に配信され世に出たわけではないのです。
 
 生井先生によると、たとえば通信社のカメラマンが米兵を撮影した場合は、名前、所属部隊、出身地を必ず確認して記載するのだそうです。それは、それが取るに足らない写真でも、その兵士の故郷の地方新聞に紹介すれば売れる可能性があったりするからなんですね。よく考えて見れば当たり前の話で、通信社は写真を売ってなんぼの商売ですから。
 
 今回手に入手できたオリジナルのネガを解析することで、配信、発表された写真だけからでは分からない「彼が何により多くレンズを向けていたか、「どんなタイミングでシャッターを切っていたか」が明らかになるはず・・・それが今回の企画の重要なテーマのひとつだったのだそうです。展示では、デジタルのスライドショーなども使い、撮影された写真をシーケンスで見せることによって、澤田本当に撮りたかったもの、伝えたかったものは何なのかが感じ取れるように工夫されています
 
 
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Patoriots Point Naval and Maritime Museum
サウスカロライナ USA
南ベトナムサポートベースの再現展示
 
 
 小原真史(IZU PHOTO MUSEUM 研究員)さんの話で、印象に残ったことはふたつ。
 
 ひとつは子供の頃、教科書か何かにかに載っていた「安全への逃避」の写真を、自分はベトコンの被害から逃げてくる農民の姿として認識していたと言っていたことです。私がこの写真に出会ったのは、撮影された背景も知っての上でしたので、そういう誤解はしなかったと記憶していますが、写真だけを見せられれば確かにそうですよね。
 
 
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私が澤田の名前を知ったのは写真を始めてまもなく、だから今から35年ほど前、青木冨貴子著のドキュメンタリー「ライカでグッドバイ」によってでした。今も手元にありますが、もう酸化しちゃって読む気にはならないですね。
 
 
 もうひとつは、ピューリッツァー賞受賞作であり、日本では超有名な写真「安全への逃避」が、世界的には忘れられた映像であるということです。日本に住んでいるアメリカ人何人かに聞いても「沢田の写真は知らない」と。試しにGoogle.co.jpで日本語でベトナム戦争の画像をググると数枚目に出てくる「安全への逃避」が、Google.comで”Viet Nam war"を検索したときには全く出てこない。これは軽くショックでした。
 
 ベトナム戦争の報道写真でピューリッツァー賞受賞作として有名なのは、テト攻勢の際、南ベトナムの国家警察長官グエン・ゴク・ロアンが解放戦線の捕虜を路上で撃ち殺す瞬間を撮影した「サイゴンでの処刑」や、ナパーム弾で大やけどを負い、全裸で逃げてくる少女を撮影した「Napalm Girl」(facebookで児童ポルノと認識されて削除された騒動が記憶に新しいですね)で、「安全への逃避」はこれらと比べて圧倒的に知名度が低いのですよ。絵としてインパクトが弱いというのがひとつの理由のようにも思えます。
 
 
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Patoriots Point Naval and Maritime Museum
サウスカロライナ USA
南ベトナムサポートベースの再現展示
 
 
 生井先生が最後にメディアによるミスリードの話をされました。
 
 1968年1月30日未明、暗黙のうちに休戦期間であるとされていたテト(旧正月)の期間に解放戦線が一斉に隆起して、サイゴンなどにゲリラ攻撃を仕掛け、アメリカ大使館などが一時的に選挙された、いわゆるテト攻勢
 
 解放戦線側にとっては成果の割に損害が大きく、作戦としては失敗とされているのですが、大使館等が占拠されたという事実の報道が、アメリカ市民に衝撃を与え、世論を「反戦」、「ベトナム撤退」に大きく傾かせるきっかけとなったのだそうです。
 
 現地から見れば、不意打ちでゲリラ攻撃をされれば、ある拠点が一時的に占拠されるのは当たり前のこと(今だって数人のゲリラや強盗に立てこもられるってことありますから)です。しかし、一般人は「大使館が占拠」されてしまうような事態が起こるということは、かなり劣勢だという判断をしてしまいます。これはベトナム戦争の終結は間近であると知らされていたアメリカ国民にとっては大きな衝撃だったでしょう。
 
 
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Patoriots Point Naval and Maritime Museum
サウスカロライナ USA
南ベトナムサポートベースの再現展示
 
 
 報道されたことは事実でも、受け手はこれまで持っている自分の知識、常識に照らし合わせて全体を理解しようと思いますよね。最近流行の言葉では「バイアスがかかる」というのでしょうか。ベトナム戦争の場合は、それが良かったのだと思いますが、そうではない場合もまた多いと思います。
 
 1965年9月6日に撮影された「安全への逃避」が世界から忘れ去られてしまっている理由は「絵としてのインパクト」の弱さはもちろん、「世論に与えた影響の小ささ」が大きいと思います。「サイゴンでの処刑」はまさにテト攻勢の際に撮影されたもの、Napalm Girlは北爆が再開された直後、1972年6月8日の撮影で、いずれも米国内に強烈な印象を与え世論を大きく動かした写真ですから。
 
 
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SS Alabama Battleship Memorial Park
アラバマ USA
ベトナム戦争でも活躍したT80戦車
 
 
 トークイベントの最後には元UPI写真部長の今城力夫さんが飛び入りで登場。澤田さんが亡くなったときの現地の状況などを話されました。沢田はプノンペンの南約30キロの国道2号線上で襲撃され、同行のプノンペン支局長フランク・フロッシュと共に命を落としています。おそらくその襲撃はクメールルージュの兵士によるものではなく、モノ盗りによるものだろうというのが今城さんの見解。当時のカンボジアは誰もが盗賊化してしまうような治安の状況だったとのことでした。
 
 自分のためのメモとして書いた部分もあって長文になってしまいました。
 
 またベトナムへ行きたい気持ちが強くなってきましたわ。
     もっとサイゴンを歩きたい。フエにも行きたい・・・。
 
澤田教一 故郷と戦場」は
静岡県長泉町東野クレマチスの丘内のIZU PHOTO MUSEUMにおいて、
2017年9月9日(土)― 2017年12月25日(月)開催。
大人 800円 でございます。
 
 
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いつの間にかこんなものが・・・@クレマチスの丘
 

2017年9月 2日 (土)

奇祭「吉田の火祭り」

 8月26日、「日本三奇祭」のひとつとされている「吉田の火祭り」に、初めて出かけてきました。
 
 
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 「吉田」というのは、山梨県の富士吉田市のこと。河口湖と忍野村に挟まれていることもあって、自治体としてはいまひとつ印象が薄いかもしれません。2011年にそれまで「富士吉田駅」だった富士急の駅が「富士山駅」に改称されたために、ますます「富士吉田」という自治体名称が目立たなくなったように感じます。「吉田のうどん」の「吉田」です。
 
 
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浅間神社参道を進む子供神輿
 
 
 その富士吉田にあるのが、世界遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産にもなっている「北口本宮冨士浅間神社」です。その南側が古くからの市の中心地で、御師の家が建ち並ぶ富士講の一大拠点でありました。
 
 この火祭りはそのあたりを中心としたお祭です。
 
 
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最近では旧御師の家もCafeなどを始めたりして、
なかなか良い感じです。
 
 
 祭りが行われるのは毎年8月26〜27日で、週末に当たるとは限らないので、なかなか出かけにくいお祭なのですが、今年はちょうど土日に重なりました。「混んでるだろうな」とは思ったのですが、一度は観ておかなければと思い、意を決して(大げさ過ぎるか・・・) 出かけました。
 
最もお祭会場に近い指定駐車場「吉田小学校」は既に満車。車を入れることができたのは、会場から2kmほど離れた「吉田西小学校」でした。
 
 26日の夕方から町中で大松明が焚き上げられるのが、火祭りと呼ばれる所以です。しかし松明が炊かれるこの鎮火祭は、いわゆる宵宮に当たるお祭で、本祭は翌27日の「すすき祭りなのだそうです。
 
 お祭の主役は松明ではなく、ふたつの神輿明神型と呼ばれる比較的「普通」の神輿と、真っ赤な富士山の形をした「御影(お山さん)」と呼ばれる神輿です。
 
 
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明神神輿

 
 
 神輿はいつもは浅間大社の境内にある、諏訪神社に納められています。明神神輿には、お浅間様3柱とお諏訪様2柱が遷され、お山神輿には浅間大神の荒霊 が乗ると言われております。
 
 
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お山神輿
 
 
 浅間神社が出来る前、ここは諏訪神社でした。現在の北口本宮冨士浅間神社の元になったのは、永禄4年(1561年)の信玄による富士権現造営であったと伝わります。武田氏が滅亡すると、信仰の拠点は諏訪神社から浅間神社へと移り、そして享保期以降、富士講の拠点として一気に栄えることになります。
 
 火祭りも、もとは諏訪神社の祭典を起源とするものという説が有力です。諏訪大社の祭神、建御名方神が国譲りの力比べで負け、信濃の諏訪湖へ追い込まれた際に松明を燃やしたところ、相手側の軍は無数の炎を援兵と見て退散したとの古事記伝承によります。
 
 現在の火祭りは、木花開耶姫命を祭神とする浅間明神(北口本宮冨士浅間神社)と、建御名方神を祭神とする諏訪明神社(諏訪神社)の、両社の祭典として、浅間社宮司が主宰して執行されるということのようです。
 
 
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御霊移しの儀式
 
 
 26日の午後、浅間神社の御神体を神輿のある諏訪神社に移す「御霊移しの儀式」が行われます。神事の後、ふたつの神輿は浅間神社境内を出て上吉田の町中へ繰り出していきます
 
 
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神輿が通り過ぎると、大松明が次々と立てられます。
 
 
 神輿行列は夕刻、御旅所に到着。御旅所着輿祭と奉安祭の神事が終わると、いよいよ大松明に点火町中が炎に包まれるという段取りです。
 
 
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御旅所に前のお山神輿
 
 
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大松明に次々と点火されていきます
 
 
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 翌27日にも神輿は市内を巡航、金鳥居の下で金鳥居祭という神事も行われます。ふたつの神輿が浅間神社境内に戻るのは暗くなってから。このとき参詣者がススキの玉串を手に持って集まるので、「すすき祭り」と呼ばれているそうです。
 
 今回は初日だけでしたが、機会があれば2日目も・・・と思っています。
 

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