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2017年7月

2017年7月31日 (月)

渭伊神社と磐座遺跡

井伊谷龍潭寺を訪れた後、まだ少し時間が合ったので、
 少し離れたところにある渭伊神社に立ち寄りました。
 
 
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玉依姫命(たまよりひめのみこと)、品陀和気命(ほむだわけのみこと・応神天皇)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)と八幡の神々が祀られているとのこと。近世までは、正八幡宮とも呼ばれており、今でも地元では「八幡様」と呼ばれ親しまれているそうです。
 
もとは龍潭寺境内にあったものが、南北兵乱の時 今の地に移ったと伝わります。今、龍潭寺と並んであるのは井伊谷宮。
 
裏山にあたる薬師山(山といっても標高41.75m)の頂上に磐座遺跡と呼ばれる巨石群があります。行ってみると、なるほどこれは祀りたくなる風情。
 
 
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 調査によって4世紀(古墳時代)から13世紀(鎌倉時代)に至る長期間、連綿と続いた祭祀場であったことが明らかとなっているとのこと。なので、龍潭寺から渭伊神社がここに移される前から、きっとここには別の、なんらかのお社があったのだと思われます。
 
境内には幾つかの境内社があります。
 まず、参道に天白社。
 社殿の左手に、英霊社・稲荷社・祖霊社。
 本殿周囲には、若宮八幡社、水神社、御鍬社、菅原社、
 金山社、榊本稲荷社、そしてモロード様伊豆社
 
 
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えっ、モロード様って誰??
 
 モロードというのは、客人(まろうど)神の事ではないかと言われています。 客人神とは、他の地域から来訪し、その土地で信仰されるようになった神、また一説には天孫系の神に祭神の地位を奪われ、 客人扱いされている神様とも。もしかすると、磐座遺跡に関連のある神様なのかもしれませんね。
 

2017年7月30日 (日)

この夏、なぜか荒木経惟

天才アラーキーこと、
   御年77才の写真家荒木経惟の写真展が
             この夏ラッシュです。
 
 
6月のエプソンイメージングギャラリー エプサイトでの
          「花遊園 」を皮切りに、
 
CHANEL NEXUS HALLでは、
 
 
20170729dsc09489  
 
で、現在開催中なのが、次のふたつです。
 
                 @東京都写真美術館
 
            @東京オペラシティ ギャラリー
 
 
「花遊園」は残念ながら見逃したのですが、あとの3展は制覇させていただきました。
 
 生誕何周年というわけでもないのに、なぜ、今「荒木」なのかというのはサッパリ分からないのですが、写狂老人の後期高齢写などと自らを定義しながらの、精力的な仕事ぶりには目を見張るばかりです。
 
 あたしが、意識して写真を始めたのは1982年なのですが、天才アラーキーの名は、それ以前から存じ上げておりました。当時、少年にとって写真雑誌なんてのはエロ本(もうこれ死語の世界っすね)の代用のようなもので、逆に写真雑誌っぽいタイトルのエロ雑誌も多かったような気がいたします。
 
 
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いきなり壮観www@東京オペラシティー ギャラリー
週刊大衆の「人妻エロス」というシリーズで
素人モデルさんはみんな応募してくるんだそうです。
比較的若い子もいますが、後期高齢者くらいの方も・・・
 
 
 そんな雑誌の代表ともいえる?白夜書房の「写真時代の紙上で、荒木センセイは大活躍しておられました。そんな雑誌とは言っても、今ググってみますと、森山大道さんのような、今では大御所と呼ばれる先生方も参加されていた、たいそうな雑誌だったようなことが書かれています。ホンマかいなと思ったりはしますけれど。
 
 
20170729dsc09531  
 
 自分が写真を始めてからは、とくに好きな写真家でもなんでもなかったので、荒木氏の作品を見る機会は減ったものの、奥様である陽子さんの死、そして、それを題材にした写真集の制作など、折に触れて話題は耳に入ってきました。
 
 
20170729dsc09534
東京オペラシティー ギャラリー
 
 
 荒木さんの写真は、自らよく語っているとおり私写真なんですよね。コマーシャル用の写真じゃない。有名人を被写体にするわけでもない。そもそも万人ウケする綺麗な写真でもない。むしろ一般の紳士淑女の皆様方が眉をしかめる類いの写真ですよね。それでも、これほど長期にわたって第一線で活躍できてるってのは、ホントに凄い写真家だと思います。自らを「天才」と称して写真家自身の存在感を全面に押し出すという自己プロディース力にも長けていたというのもあるでしょうね。電通出身ですし。
 
 
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東京オペラシティー ギャラリー
 
 
と、ぐだぐだと思い出話と勝手な話を書いてしまいましたが、百聞は一見にしかず。
東京都写真美術館(恵比寿)と東京オペラシティー(新宿)の写真展はまだ開催中です。ぜひ家族連れで訪れ、気まずい雰囲気になって下さいwww。
 
 
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東京オペラシティー
 
 

2017年7月23日 (日)

井伊谷寄り道「龍潭寺」

2017年、NHK大河の「おんな城主直虎」は、相変わらずの低視聴率で苦戦しているようです。でも、まぁ、テーマからして予想通りというところでしょう。
 
物語の舞台は奥浜名湖の井伊谷(いいのや)というところです。
 
 
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井伊谷宮
 
井伊谷は長篠からは一般道で30分、新東名いなさICからも10数分と、たまたま寄り道に最適な場所にあったので、井伊氏の菩提寺「龍潭寺」くらいには寄っていこうと訪れてみました。
 
 
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龍潭寺
 
 
私は「井伊谷」という土地の名前自体、直虎で初めて知りました。
たぶん、それ以前は「いいのや」読めなかったと思います。間違いなく「いいたに」って読みました。
 
 
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龍潭寺庭園
 
 
近くの観光施設としては、鍾乳洞である「竜ヶ岩洞」や、「はままつフルーツパーク」、あるいは戦国時代の史跡であれば、「三方ヶ原の古戦場」などがあります。おそらく、以前は井伊谷訪問を主目的に、この地方を訪れる人っては皆無と言ってもよかったのではないか・・・と想像します。
 
 
201707164q1a1211  
 
大河の舞台になった地方は、観光客がどっと増えるのが常ですが、井伊谷の場合は、元が元だけに、絶対数としてはたいした人数でなくても数十倍という比率で観光客が増えているのではないでしょうか。
 
 
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龍潭寺庭園大日如来像
廃仏毀釈運動の際つけられたと言われる傷が多く残ります。
 
 
いずれにしろ、大河終了後、短期間でまた静かな井伊谷に戻ると思われるので、季節によって趣の変わる龍潭寺の庭園の鑑賞など、ぶらりと訪れるのもいいかなと思っております。
 
 

2017年7月22日 (土)

武田 vs 織田・徳川、激戦の地「長篠城・設楽ヶ原」を訪ねる

 織田・徳川連合軍が、戦国最強と謳われた武田騎馬軍団を設楽原で鉄砲隊で向かえうち、武田氏に決定的な打撃を与えたといわれる長篠の合戦
 
 先日、その古戦場を初めて訪れました。
 
 
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新城市設楽原歴史資料館
 
 
 設楽原の古戦場にある新城市設楽原歴史資料館長篠城趾、訪れたのはこの2ヶ所だけですが、もちろんこれだけではなく、付近一体が長篠城攻めから設楽ヶ原での決戦に至る一連の長篠の戦いの史跡になっております。遺構や地形がかなりよい状態で残っているんですよね。
 
 
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新城市設楽原歴史資料館
鉄砲の展示が多いです。発掘された弾丸も多数。
 
 
 武田軍の戦死者を埋葬したとされる信玄塚、長篠城攻めの際の勝頼本陣跡原昌胤の墓土屋昌次の墓内藤昌豊の墓甘利信康の墓佐久間信盛vs馬場信春の丸山の激戦地小幡信貞の墓山県昌景の墓真田信綱、昌輝父子の墓馬場信房の墓復元された馬防柵織田信長の本陣跡、などなど、見所がたくさん。
 
 かみさん連れではとても見学は無理でした。
 
 
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長篠城趾史跡保存館
長篠城は日本100名城にも選定されています。
 
 
長篠の戦い
(諸説有り)
 
 
 時は天正3年(1575年)4月、武田氏の若き当主勝頼は、徳川に奪われた長篠城を奪還すべく1万5千の兵を率いて奥三河に侵攻します。
 
 徳川方、対武田氏の最前線に位置する長篠城の城主は、信玄の死(1573年)を察知して徳川に寝返った奥平貞昌。奥平氏を味方に引き入れる際、家康は長女・亀姫を貞昌と婚約させており、貞昌は武田家に人質として送っていた妻おふうと離縁。武田勝頼は当時16歳であったおふうと、13歳の貞昌の弟千丸らを処刑しています。
 
 5月1日勝頼は長篠城の北、医王寺に本陣を構えます。城の直ぐ北の大通寺には、武田信豊真田信綱らが布陣。西側の箕原、岩代川辺には穴山信君小山田昌辰、そして城の東側の鳶ヶ巣山武田信実姥ヶ懐三枝守友
 
 
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長篠城本丸から鳶ヶ巣山方面を望む。
手前の線路はJR飯田線
 
 
 長篠城の守備兵は、僅かに五百
 
 武田軍に完全に包囲され孤立した長篠城は
 
      ま・さ・に
      絶対絶命
 
 
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長篠城趾、北側の土塁と堀
 
長篠城は南と東西の三方を川そして絶壁に囲まれた
自然の要塞とも言える場所にありました。
 
しかし北側はなだらかで比較的防御が難しそうです。
もちろん堀や土塁、柵などの防御施設が造られていたとはいえ、
目と鼻の先のまで来ている武田軍を
僅か500の兵で持ちこたえたというのは
並大抵のことではないと思われます。
 
設楽ヶ原では馬防柵の向こう側の鉄砲隊に突撃を敢行した武田軍ですから
全軍で本気で攻めれば落とせたでしょう。
織田・徳川連合軍の主力との決戦に備え兵力を温存したかったのでしょうが
結局、決戦の際に長篠城の牽制に3千の兵を残さざるを得ず、
しかも徳川方の奇襲攻撃でそれを壊滅させられてしまったのですから
数千名の兵を失っても強襲して落としておくのが
結果論から言えば正解だったような気がします。
 
 
 奥平貞昌は、岡崎城の徳川家康に援軍を求めます
 
 
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長篠城 血染めの陣太鼓
 
 
 密使として、包囲網を突破し見事大役を果たしたのが、
 
            かの有名な鳥居強右衛門
 
ところが、家康への援軍要請は成功したものの、長篠城に戻る際に武田軍に捉えられてしまいます。
 
 
20170716dsc09313  
 
勝頼は助命を条件に
 「援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ
  と城に向かって叫ぶように強右衛門に強要します。
 
しかし強右衛門は
 
   「援軍はあと二、三日で来る。それまで持ちこたえよ
 
と城に向かって叫び、処刑されたというお話でございます。
 
これが5月16日の出来ごと。
 
 
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長篠城から強右衛門磔の場を望むことが出来ます。  
 
 
 一方、岡崎城には既に織田の大軍が到着しており、長篠へと軍を進めます。
徳川軍と合わせ、その数およそ3万8千。どえらい大軍だがね。
 
 5月18日織田・徳川連合軍は長篠城南西およそ3キロの設楽ヶ原まで進軍。そして2日の間に南北2キロの馬防柵を連吾川に沿って築きます
 
 5月20日勝頼は決戦を決意し、軍を設楽ヶ原に進めました
 
この際、信玄以来の重臣は決戦回避を進言しましたが、勝頼の近習は決戦を主張、結局、勝頼は決戦を決意したと伝わります。
 
 武田軍は長篠城の牽制に3千を残し、残り1万2千を連吾川の東の高台に、織田・徳川軍を見下ろすように展開します。
 
 
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新城市設楽原歴史資料館から織田・徳川連合軍布陣の地の眺め
資料館付近は内藤昌豊の陣。
復元馬防柵のあたりは石川数正、滝川一益あたりの陣だったのでしょうか。
当時も背後が森だったとすれば、
武田方は連合軍の兵力を正確に把握できなかったというのはあり得るでしょうね。
 
 
 兵力で2倍以上、しかも陣地の前に柵を築き、鉄砲を豊富に備え、超守備的布陣を取っている敵陣に突っ込んでも、到底勝ち目は無いと思うのですが、勝頼は連合軍の兵力を見誤ったのか、焦ったのか、それとも自信過剰だったのでしょうか。
 
 一方の信長は本陣を設楽ヶ原から茶臼山まで後退させています。このあたり勝頼とは違い慎重にみえます。戦いの当事者である家康はともかく、信長は武田軍にプレッシャーを与えて、長篠城が守れれば良いくらいに思っていたのでしょうね。もしも、これで武田が出てきてくれればしめたモノ、飛んで火に入る夏の虫と。
 
 同日夜、徳川軍の酒井忠次隊を中心とする、およそ4千の兵が、密かに設楽ヶ原を迂回し、長篠城を包囲する武田軍が陣を張る鳶ヶ巣山方面に向かいました。そして夜明けを待って攻撃を開始。圧倒的な兵力差による奇襲で鳶ヶ巣山の武田軍は壊滅。これで長篠城の包囲は解け、同時に武田軍は東西から挟撃され、退路すら断たれる危険すら出てきたわけです。
 
 
Nagashino
 
長篠合戦参考図
画像のクリックで拡大します。
 
カシミール3Dで描いた立体地図に落書きしてみました。
ああ楽しい(爆)
 
馬場信房追体験コースとか、酒井忠次隊追体験コース(健脚向け)とか
ハイキングコースを整備したらもっとたのしいのになぁ
なんて思いました。
 
 
 21日朝、鳶ヶ巣山の陣が崩されてしまったことは設楽ヶ原でも分かったはずです。でもこの時点で退却という判断は流石に大将としては出来ないでしょう。もう前に出る以外に選択肢が無い
 
 まず、武田軍の最左翼、赤備えの山県昌景隊が突撃を開始し、ついに設楽ヶ原の決戦の火ぶたが切られました
 二番手は中央の武田信簾内藤昌豊、三番手は小幡信貞、四番手は武田信豊、そして五番手に最右翼の馬場信房
 
 果敢に突撃を繰り返す武田騎馬軍団を、織田・徳川連合軍は馬防柵の内側から、三段構えの鉄砲隊で打ち倒したという話が有名ですが、どうやら「三段構え」というのは、あとで盛った話のようです。
 
 
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馬場信房の最期
 
 
 午後2時過ぎには大勢は決し、武田軍は退却の法螺貝を吹いて、豊川沿いに撤退を開始。この戦いで多くの重臣、名将を失った武田氏は、一気に滅亡への道を突き進むことになるわけですな。
 
 奥平貞昌は、この後、信長の「信」を貰って(諸説有り)「信昌」と改名。 新城城を築城し、この戦いで大きく損壊した長篠城は廃城となっております。
 
 
 そんな、長篠の戦いですが、地元一押しは、武田軍の攻撃を寡兵で持ちこたえた若き長篠城主「奥平貞昌」でも、敗走する武田軍の殿を努めて討ち死にした武田の名将「馬場美濃守信房」でもなく、密使に走った足軽、鳥居強右衛門のようでした。
 
 
20170716dsc09309  
陰毛と脇毛がトレードマークのようです。
 
 
20170716dsc09312  
はたして小学校のキャラクターに相応しいんだろうか??
忠義の人って観点ですかね。
今の時代で考えればブラック企業っすけど。
 
 

2017年7月17日 (月)

名古屋熱田神宮ブラタモリの旅

久しぶりの墓参りついでに、熱田神宮に寄ってきました。
 
 
Nagoya1982475
 
熱田神宮御朱印
たいていの神社では300円なのですが
ここは「お気持ち」でした。
 
 
主祭神は熱田大神
 
三種の神器の1つである草薙剣を祀る神社としても知られています。
 
      熱田神宮のウェブサイトはこちら
 
 
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正門(南門)
 
 
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境内唯一の朱塗りのお社ー南新宮社
 
 
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清雪門
 
天智天皇7年(668)新羅の僧が神剣を盗み出しこの 門を通ったといわれ、以来不吉の門として忌まれたとも、神剣還座の際門を閉ざして再び皇居へ遷ることのないようにしたとも伝えられており、不開門(あかずのもん)と呼ばれています。
 
 
20170715dscf7768
 
本宮
 
 
最近ブラタモリで見て、ちょっと触発されて周辺も散策。
 
 
 
Photo  
 
熱田神宮が位置するのは熱田台地の南端です。
 
 
20170715dscf7792
 
熱田神宮の南側にある道標。
写真向こう側からきた東海道は画面の左へ曲がり熱田湊へ
右は熱田神宮
 
 
その南側は江戸時代には海で、熱田神宮は岬の先端のような位置にありました。
 
東海道は熱田湊から唯一の海上路である七里の渡しに
 
 
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常夜灯と鐘楼、船着場が復元された宮の渡し公園
熱田区の「七里の渡し(宮の渡し)」解説ページ
 
 
20170715dscf7808
 
宮宿の脇本陣級の旅籠だった古民家(丹羽家住宅)
 
 
ブラタモリでは堀川の歴史についても紹介されていました。
かつては材木を運ぶための運河として使われていたと。
 
1980年代前半に撮影したネガが手元にありました。
 
フイルムはKodak Tri-X
撮影に使ったカメラはおそらくMINOLTA SRT101だと思われます。
 
 
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堀川(1983?)
 
 
どこで撮影したのかは、さっぱり覚えておりませんがwww
この次のカットが熱田神宮なので、
ひょっとしたら七里の渡し付近だったのかもしれません。
でなければ、松重閘門あたりかな。
 
 
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熱田神宮(1983?)
ちょっと遅めの初詣というようなタイミングだと思われます。
  
 
 1982年にそこそこ真面目に写真を初めてから、実家の名古屋に帰って、カメラ持ってぶらっと歩ことがあったんです。カメラを持つと今まであまり気にしなかったところに寄ってみたくなり、そして気がつかなかったものが目につくようになるんですよね。当時、この堀川に浮かぶ材木を初めて見て,「名古屋にもまだこんなところが残っているんだ」と思ったことを覚えています。
 
 

あじさい咲く田野倉駅@大井川鐵道

大井川鐵道田野倉駅
 
趣のある木造の駅舎で人気の駅ですが、
 
  地元の方々の尽力で、美しい花の咲く駅としても知られています。
 
 
20170702dsc08780
 
 
とりわけ見事なのが紫陽花です。
 
 
201707024q1a0827  
 
7月2日、天気も悪いことだし、紫陽花を撮るにはちょうど良いかなと思って田野倉駅へ。そしたら何だが青空が広がってしまい、ちょいと企画倒れ。
 
 
20170702dscf7245  
ホーム南側で、下り SL急行「川根路」
 
 
また撮りにいく機会があるかもしれないので、備忘録を。
 
 
Tanokura_2 
 
紫陽花が沢山植えてあるのは駅舎の北側
 
駅舎からホーム側に出て、右手に入ったところです。
 
 
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ホーム北側から上り列車を
 
 
 まずは下り千頭行きのトーマス号を撮りたいのですが、上り列車を、紫陽花を前景に良い構図でバシッと撮れるスポットというのは1ヶ所しか無さそうでした。そこを先客に取られてしまうと、あとはバリエーションを探すしかなさそうなんですよね。
 
 
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下り 「トーマス号」
 
 
 私はそもそも紫陽花が沢山植わっている一角に入れるのかどうかが最初分からず、別の場所で撮影してたときに、そこへ入っていく人を見て、「ああ、入って撮れるんだ」と知ったくらいなので、当然バリエーションです。で、無理矢理構図を作ったのが上の写真。
 
 
20170702dscf7216
 
下り 「トーマス号」
 
 
 続くSL急行「川根路」は紫陽花との組み合わせを諦め、ホーム南側からユリを前景に撮影。
 
 
201707024q1a0880
 
下り SL急行「川根路」
 
 
昼飯は近くの「和彩食堂 あけぼの」へ。
          ウェブサイトはこちらです。
 
 
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駐車場には、昭和レトロ看板のコレクション。
 
 
20170702dsc08810   
 
店内にもマッチ箱のコレクション。
 
私は一日15食限定の「あけぼの膳」を頂きました。
 
 
20170702dsc08807
 
川根大根ラーメン、自然薯とろろごはん、川根茶しゅうまい、
濃厚さつまプリン、香の物のセット
 
 
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腹ごしらえの後、上りのトーマスを。
 
 
20170702dscf7283
 
上り 「トーマス号」
 
ちょっと日差しがきつすぎますなぁ・・・。
 
 
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最後に川根温泉のあじさいの小径からの一枚を
  (実際に撮影したのは、田野倉駅に行く前)
 

2017年7月 1日 (土)

古道「若彦路」の名残を求めて・・・御坂山地「大石峠」

 御坂山地を貫き、山梨県笛吹市芦川町と富士河口湖町大石地区を結ぶ
    「若彦トンネル」が2010年に開通
 
実用というよりむしろ災害時の対策として造られた道なのですけれど、ちょくちょく芦川方面に出かける私としては、大変重宝させて頂いております。
 
 さて、このトンネルの「若彦」という名称、これはかつてこのルートを通っていたと言われている古道、「若彦路 (わかひこみち)」からとったのだそうです。Wikipediaによれば「若彦」の呼称は日本武尊(ヤマトタケル)の子稚武彦王に由来するとのこと。由緒正しい名称なのですね。
 
 
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大石峠河口湖側登山口近くにあった新旧ふたつの馬頭観音
小さい方には「右 上 芦川道、左 長浜道」
大きい方には、「右ハ芦川ヺ経テ甲府方面二至ル、左ハ長浜村及十二ヶ岳登山道」
 
 
 若彦路甲斐国と駿河国を結ぶ街道で、具体的には、甲府盆地ー笛吹市八代町奈良原ー鳥坂峠ー芦川ー大石峠ー河口湖大石ー富士宮市上井出というルートが想定されているようです。
 
 
201706174q1a0329
 
 
 若彦トンネルのちょうど上あたりにあるのが大石峠。かつて若彦路の一部であったと思われる道も、登山道として残っています。峠には新道峠から稜線を歩いて訪れたことはあるのですが、若彦路を辿って登ったことはありませんでした。6月17日、初めての若彦路を河口湖大石から
 
 登山口は若彦トンネル入口の直ぐ近くです。
 
 
201706174q1a0316
 
大石峠付近にあった何か
右下の四角い石に何か書いてありましたが、読めず・・・
 
 
 初めは緩い坂道ですが、徐々に斜面は急に。でもかなり大きくつづら折りとなっていて、道自体の勾配はさほどありません。登山口から峠まではおよそⅠ時間半峠では気持ちの良い展望が開けます。
 
 
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大石峠からの富士山の眺望
 
 
 アヤメやツツジが美しいと、ガイドブックや地図には書かれていますが、アヤメは1株だけ発見、ヤマツツジはちょっと時期を外したようで、花はかなり痛み、散りつつありました。
 
 稜線を東側へ、不逢山まで散歩。ちょうど満開を迎えた大きなサラサドウダンツツジの樹を見つけて撮影大会。樹が大きすぎて花の位置が高く遠かったのですが、この日はタムロンの70-300mmズームを携行しており、かなり良い感じに撮れました。レンズ選択は正解だったかも。
 
 
201706174q1a0209  
サラサドウダンツツジ
 
 
 峠に戻って、今度は西、節刀ヶ岳まで歩きます。この稜線を歩いたのは初めてでしたが、アップダウンはさほど無く、緩やかな散歩道という感じでした。標高1736mの節刀ヶ岳からは、もちろん大展望が得られます。山頂に着いたときには富士山の頂上が雲に覆われていたのですが、せっかく来たので、富士山にかかる雲が切れるまで待って撮影。
 
 
201706174q1a0273 
節刀ヶ岳山頂直下より
 
 

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