アタシは写真家の端くれ以下の人なので大した意見もございませんが、この記事については、そもそもレタッチの是非というよりも「風景写真」の定義の問題のような気がしました。更にいえば「写真」の定義。
記事の論調のように、実際の風景をできるだけ、自然に見えるように撮ったものを「風景写真」と定義するなら、もちろんバリバリにレタッチした画像はその定義外でしょう。
でも、そうなるとベルビア(FUJICHROME Velvia:派手な色調を特色としたFUJIFILM製のリバーサルカラーフイルム。90年代からフイルム時代の終焉まで、風景写真用の定番フイルムとして圧倒的な支持を得ていた。)を使って撮影された写真を風景写真と呼んで良いのかが微妙になります(笑)。
FUJICHROME Velvia TOYO FIELD 45AⅡ
当時は「記憶色」を再現するフイルムだなんて宣伝されていましたが、あれは写真家の「期待色」が出るようにFUJIFILMが調整しただけのことで、今のレタッチの工程があらかじめフイルムの中に仕込まれていただけなんですよ。今振り返ってみると、例えばある風景を目の前にしたとき「ベルビアで露出切り詰めて撮るとこういう色になる」とか脳内で変換してシャッターを切ってたことは間違いなく、それを繰り返しているうちに、いつのまにかそれで再現される色が記憶色だと思い込んじゃった可能性が高いです。要するにFUJIFILMによる刷り込みですわ。
いわゆるコンポジット撮影
もう一つ後半に書いてあっ「コンポジット合成は良くない」 みたいな話は上に書いた「実際の風景をできるだけ自然に撮ったものが風景写真」という論理には合わないですよね。長時間露光で星の軌跡を表現する写真は、そもそも人の目に映る実際の風景じゃない。ですもの。
この点に関しては、「現場主義」という言葉を使って説明はされていました。「現場で仕上げたものが写真」というニュアンス。そうなるとカメラの機能やフィルターを使いまくって盛ったものはいいのね?・・・とか、ついつい問い詰めたくなります。
印象としては「フイルムで1回撮りで撮影できる風景写真」を「(正統派)風景写真」と定義してるだけのことかなと思いました。そうならそうと最初からそう言えば良いのに・・・・。色々事情があって言えないのかしら(^^;;;
昭和ノスタルジーって感じに激しく調整(右下がオリジナル)これを、ストレートに撮ったままの写真と勘違いする人はいないんじゃないかな。
アタシ個人に関していえば、
フイルムとデジタルが切り替わる頃に、2000年代前半に「写真」の定義については色々考えました。
そして、「東京カメラ部」が登場した頃にも、あれは「写真ではない」と思いました。だから「写真部」じゃなくて「カメラ部」なんだなと納得したものです。
「東京カメラ部」的写真が、伝統的な写真雑誌にも登場するようになり、時代は変わったなぁ〜と想う今日この頃です。
最近は写真という定義に、さほどこだわりはありません。また、現場主義でもありません。
デジタルの場合、Jpeg出しで完全な絵を作ろうなどという気は全く無く、現場では出来るだけデーターを採っておこうという意識の方が強いです。例えば、最終的に暗めに仕上げるつもりの画像だったとしても、撮影時にハイライトの階調に余裕があれば、少し明るめに撮影し、使わないかもしれない暗部の階調も念のため拾っておく・・・みたいなことはやります。
といっても、いつもはPhotoshop Lightroomで少しいじるくらいで終わってしまいます。
たまには激しく調整やら合成をしますけどね。でも、そんなに得意な方じゃないと思います。
普通の画像(右)だと迫力ないんで・・・(笑)
ただ一つアタシが気になるのは、
さほどでもなかった景色をレタッチで盛って、
「素晴らしい景色でした」とかゆう文章と一緒に
アップしちゃってるやつ です。
そんな画像に対して
「すごい、感動しました。こんな景色見てみたい!!」
なんてコメントしている人を見るととても悲しい気持ちになります。
終わっちゃったコキアの紅葉を復元した(笑)ものです。
もちろん右がオリジナル(JPEG)
もちろん細部を見れば紅葉が終わってることはわかりますが、
騙される人も居るんじゃないかと(笑)
流石に紅葉の色変換は極端だとしても、
遠景の富士山を左から右に変えるくらいは、
事実を伝える写真として使うのでなければ
普通にやっちまいますね(爆)
地元の観光協会や業者がCMとしてアップしている画像なら「最大限に盛ったイメージ写真」として受け取るのがお約束だと思ってますが、
「善意の第三者の立場でそれやっちゃまずいでしょ」
ってのがアタシの個人的な感覚です。
これはデジタル写真やレタッチの問題じゃなくて、誰でも情報を発信できるSNS時代の個々の意識の問題でしょうね。
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